無職転生22話「現実(ユメ)」感想後半~「現実(ユメ)」とは何か?~

この記事は、どうせユメ物語。妄想に決まっています。

一人間が考えたくだらない解釈を楽しんでくれ!

23話を見た後だと、自信がない!

 

まだ、言語化されていなかったり、

自分の中でしっくりこない部分があるので、

分かりづらいかもしれません。

メモみたいなものなので、悪しからず。

この記事とは別に、分かりやすくまとめた記事をアップする予定です。

 

ED解釈は間に合いませんでした。

まとまったら、別の記事に書きます。

 

目次です→

 

公式サイト→

 

 

 

現実とユメとスクリーン

こちらをご覧ください!→

kanuokun.hatenablog.jp

 

 

現実(ユメ)とは?

 

f:id:kanuokun:20211219232104p:plain

 

問題をややこしくしているのが、

「ユメ」と「現実」の多層構造である。

「ユメ」と「現実」が複雑に絡み合っているために、

どっちが「現実」で、どっちが「ユメ」なのか分からなくなるのが、

22話の難しい所である。

特に冒頭のシーンは、解釈しようとすればするほど混乱してくる。

まさに、悪夢である。

 


ルーデウスの身体にとっての「ユメ」はただの「悪夢」である。

ルーデウスの身体にとっての「現実」は「異世界」である。

前世の男、つまりルーデウスの精神にとっての「ユメ」は「異世界」であった。

ルーデウスの精神にとっての「現実」は「前世の世界」であった。

視聴者にとって、「ユメ」は「前世の世界」を含む「アニメ」全体である。

視聴者にとっての「現実」は「アニメ」の外にある。

 


異世界」はルーデウスの身体にとっては「現実」であり、

ルーデウスの精神にとっては「ユメ」である。

「アニメ」はルーデウスにとっては「現実」であり、

視聴者にとっては「ユメ」である。

このように「現実」と「ユメ」が複雑に重なり合っている。

これこそ「現実(ユメ)」が表すものである。

 


「アニメ」を考えると複雑なので、

いったん「ユメ」としての「アニメ」は考えないことにする。

メタという章で語る。

 

 

「現実(ユメ)」とは、

ルディーが求めていた(我々視聴者も求めていた)

理想の幸せ、理想の異世界像を表していると思う。

 

解釈1

f:id:kanuokun:20211219233728p:plain

 

悪夢で描かれたこと

二通り解釈できると思った。

 

一通り目は、死へのトラウマである。

悪夢の前半、ルディーはボレアス家のパーティー会場にいた。

窓がスクリーン代わりになっている。

窓の内側は「ユメ」であり、窓の外側が「現実」である。

窓の内側は、ルディーが(我々視聴者が)求めていた、理想の「異世界」であり、

ルディーが必死に積み上げてきたものである。

窓の外側は、死と隣り合わせの危険な「現実」だと思う。

 

死への恐怖とは、積み上げてきたものを一瞬で喪失することへの恐怖である。

この恐怖は、「異世界」を「現実」だと認識し始めたから生まれるものである。

異世界」を「現実」だと認識し始めて成長したともとれるし、

異世界」の少年時代の思い出に、執着しているともとれる。

 

二通り目は、ルディーの転生者としての葛藤である。

夢の内容は全てルディーの内面である。

悪夢はルーデウスの後ろめたさが見せたものだと思う。

悪夢の冒頭シーンでは、ユメの世界に居るルーデウスを、

現実の世界からオルステッドや視聴者が見つめているという描写になっている。

また、悪夢の後半のシーンでは、ユメを求めて手を伸ばす前世の男が、

後ろから自分に刺されて胸に穴ができる。

その穴から、オルステッド。つまり、死や現実が覗いているという表現であった。

これは、何を示しいているのか。

異世界という現実でみんなと一緒に生きたい!」と考えるルディーと、

異世界はユメであって、そこで生きる資格はお前にはない!」と考えるルディーの、

無意識による葛藤を端的に描いているとも捉えられる。

 

解釈2

f:id:kanuokun:20211219235319p:plain

 

22話で描れたこと

無職転生が苦手な人も結構いる。

Amazonのレビュー、ブログ、ヨウツベの感想動画、2chなどを見て、

苦手な理由は大きく二点あることが分かった。

 

一点目は、主人公に感情移入できないからという理由である。

元ヒキニートであり、セクハラや屑な行動が目立つ。

よって、感情移入できないため嫌いであるらしい。

 

 

二点目は、結局は「なろう作品」じゃないかという理由である。

確かに、魔術や文字を習得できたのは転生者であるが故である。

転生者の特典と言えなくもない。

努力をしているが、才能があるのも事実である。

ちゃんと、理由があるにせよ結局みんなにモテモテのハーレム状態だし。

彼の周りには良い人たちばかり。

結局、前世よりも環境が良いし、二度目の人生だから、

上手く行っている節もある。

それよりも、現実を本気で生きる物語を見たい。

という考えである。

 

「現実(ユメ)」というタイトルには、

これらの疑問が隠れている。

転生者の歪みと、

異世界で生きる」=「逃げ」かもしれない、

という部分に真っ向から向き合っている。

 

なぜ、現実とユメの対比に拘ったのか?

身体と精神体で「異世界」の捉え方が違うことを示したいからだと思う。

精神体は「異世界」をどこか「ユメ」だと思っている節があった。

ルディーがどこかゲーム感覚で達観しているなーと感じたことはないだろうか?

 

例えば、第5話の人攫いのシーン。

「もしかしたら、本当に人攫いにあったのかもしれない。」

そう考えた時点で、エリスを改心させる作戦は捨てるはずである。

しかし、どこかゲーム感覚が抜けないルディーは、

作戦を続行し、死にかける。

 

例えば、第11話でのルイジェルドとの衝突。

同様に、ゲーム感覚で作戦を考えており、

子供のキャラクターが一人が死んでしまう。

それを、ルイジェルドに責められる。

 

 

大切なものがどんどん増え、死による喪失の恐怖を知るにつれて、

異世界」が「ユメ」から「現実」に変わりつつある

同時に、精神体と身体が徐々にシンクロして行っている。

精神体の瞳がルディーと同じ緑色になっている。

これは、徐々に精神と身体が同化していると解釈できる。

22話の悪夢の後半、ルディーは前世の世界に戻る。

この時、部屋の外が「ユメ」である。

今まで前世の部屋のシーンでは外が「現実」の象徴であったのに、

22話では外が「ユメ」の象徴になっている。

これが、1話から21話にかけて、ルディーの変化した部分である。

ルディーがだんだんと、異世界を受け入れ出しているという事だと思う。

ちょっとずつ体と精神体が融合しつつあるという示唆でもあると思う。

杯とワインは色々な象徴になっていた。

杯が心、ワイン=血=身体と考えると、

最後に杯がワインに入っていったのは、

身体と心の融合を表していると解釈できるかもしれない。

また、ラストでルディーは初めて心の底から泣く。

ロキシーとの別れでも、

パウロとの再会でも、

ルイジェルドとの別れでも、

どこか達観していて泣かなかった。

それは、ルディーが転生者でどこか他人事であったからである。

しかし、22話のラストでルディーは泣いた。

こじつけかもしれないが、泣くというのは身体性を感じさせる行為だと思う。

ルディーの少年時代というのは、常にエリスと共にあった。

エリスに捨てられるというのは、

ルディーの少年時代全てを喪失したことと同義である。

積み上げてきたものが一気に崩れるような喪失感を経て、

初めてルディーは異世界の人間になれるのかもしれない。

 

 

ちなみに、成長したとは言っても、

「現実(ユメ)」に立ち向かっているのではなく、

「現実(ユメ)」にしがみついているような印象を受ける。

「現実(ユメ)」で生きたいという思いの裏側に、

「現実」から逃げたいという思いがあるのかもしれない。

「現実(ユメ)」で生きていく決心を固めるのは、まだ先の物語なのかもしれない。

 

解釈3

f:id:kanuokun:20211219235824p:plain

 

解釈4

f:id:kanuokun:20211219235902p:plain



 

メタ

無職転生」は他の「なろう作品」と同じく、

「現実」から逃げたいとう願望から作られた、「ユメ」であると言われることもある。

22話ではその疑問に真っ向から取り上げて演出に昇華していると思う。

 

22話で語られたことは、そのまま視聴者にも当てはまらないだろうか。

現実を一時忘れるためにアニメを見ている視聴者もいるのではないだろうか。

 

22話で語られて、「異世界」への疑問は、

そのまま、「アニメ」やへの疑問でもある。

 

無職転生は日曜日の24時(月曜日の0時)から始まる。

ちょうど、休日と平日の境目である。

無職転生という「アニメ」そのものが、

「ユメ」と「現実」の境目に放送されるのも面白い。

 

無職転生はルディーに感情移入させるのではなく、

ルディーを通して、視聴者が様々な感情や解釈ができるように作られている。

ルディーというキャラクターを通して、何かを見せようとしている。

スクリーンの表現にこだわるのも、そこに理由があるのかもしれない。

 

「アニメ」で語られていることは、作り物なのに。

それでも、「アニメ」に憧れる我々はどう生きれば良いのか?

無職転生はルディーを通して教えようとしているのだと思う。

 

我々は、ルディーという小さな窓から「アニメ」を見る。

その先にあるのは、暗闇かそれとも美しい青空か。

それは、まだ我々には分からない。

 

この部分はED解釈で詳しく語ろうと思う。