汎用性の高い言葉を多用するのは危険だと思う。
「やばい」「すごい」「エモい」などの言葉である。
汎用性が高い言葉が危険だと思う理由を三点まとめる。
一点目は、コミュニケーション能力を阻害する点である。
汎用性の高い言葉を使い続けると、
物事を形容する言葉がぱっと出て来なくなる。
これは、私が実際に経験したことでもある。
私は「やばい」のヘビーユーザーだった。
「やばい」という言葉は便利である。
ポジティブなことも、ネガティブなことも表現できてしまう。
相手が共感を求めている時に、
「それやばいね!」と言っておけば、無難にやり過ごせる。
しかし、「やばい」という言葉を使い続けた結果、
言葉が出てこなくなった。
例えば、友達と映画を見に行った時を例に挙げる。
「映像が●●で美しかった!まるで●●みたいだった!」や、
「●●の演技が感情を良くとらえていて面白かった!」など、
色々な感想があるはずである。
しかし、「やばい」のヘビーユーザーだった私は、
「映像がやばかった!」とか、
「演技がやばかった!」しか言えなくなってしまった。
汎用性の高い言葉ばかり使っていると、
それ以外に形容する言葉が思いつかなくなる。
したがって、コミュニケーション能力に甚大な影響を及ぼす可能性がある。
二点目は、分析する能力が落ちるという点である。
汎用性の高い言葉を使っていると、
自分の感じたことを言語化する能力を失ってしまうということは、
一点目で書いた通りである。
「思考=言葉である」という考えがある。
言語化する能力は思考や分析の鋭さに影響すると思う。
よって、言語化する能力を失うと、分析する能力も失ってしまう。
例えば、とあるニュースを見てもやっとする。
言語化する習慣が無いと「もやっ」としただけで終わりである。
自分が感じたものが、本当はどういったものだったのか。
何も分からず、やがて「もやっ」としたということも忘れてしまう。
そのニュースからは何も得られない。
しかし、言語化する習慣を持つ人間は、「もやもや」の正体を言語化しようとする。
その過程で、物事に対するに深い理解や洞察を得られると思う。
三点目は、物事への興味関心が薄れるという点である。
汎用性の高い言葉を使っていると、
自分の感じたことを言語化する習慣を失ってしまう。
言語化する習慣を失うと、様々なことに対する興味関心を失ってしまうと思う。
反対に、言語化する習慣があると、様々なものから学べるようになって、
色々なことに対して、興味を持てるようになると思う。
様々なことに興味が持てるようになると、
アンテナが高くなり、思考の密度が上昇すると思う。
また、様々なことに興味が持てるようになると、
興味を持ったことを調べて行く過程で、様々な知識が身につく。
以上三点である。
皆さんも汎用性の高い言葉には十分注意した方が良いと思う。
汎用性の高い言葉はなるべく使わないように心がけたい。
また、自分が感じたことや伝えたいことを言語化する習慣をつけたい。
日記やブログというのはとても良い教材だと思う。
私は「やばい」のヘビーユーザーだった。
このブログは私にとってのリハビリの場である。
汎用性の高い言葉から卒業して、
言語化する能力を高めるためにブログを書いている。