ハンターハンタ― 39巻 感想&考察

感想

ものすごい文章量だった。

でもなぜか、それがクセになって読んでしまう。

 

特にモノローグの文章量が多くなっている。

モノローグの中にはノイズのような情報も紛れており、難解さに拍車をかけている。

その分、継承戦前のチードルとビヨンドの会話のような、含みのある難しさは抑えられている気がする。(それでも難しい!全てを理解したとは言えない!ハルケンブルグのモノローグとか!)

キャラクターの意図を説明するために、モノローグが増え、その結果活字が多くなっているという印象を受けた。

モノローグがなかったら、各キャラクターの意図が説明されず、さらに難解になっていたと思う。

また、モノローグを減らすために、モノローグで説明している内容を全てドラマで見せようとしたら、いたずらにコマが増えて物語が進まなくなってしまう。

それに、文章が長いおかげで、たまに来る「ちょっとしたキャラクターの表情」や「スケールの大きいコマ」が映えて、感動する。

さらに、高IQ合戦をしているからこそ、理屈ではないところで行動するキャラクターの美しさが映えて、胸が熱くなるのである。

継承戦の序盤で読むのを止めてしまった人にも、是非読んで欲しい。

序盤で慣れてしまえば、継承戦の楽しさを味わえるようになると思う。

 

継承戦の楽しさというのは2つあると思う。

1つ目は、群像劇である。

これほどのスケールと質量で描かれる群像劇は見たことがない。

配信者サーバーを複タブ開いて視聴しているような、不思議な気分にさせてくれる作品だ。

2つ目は、推理である。

各所に「違和感」が配置されていて、考察をしたくなる作品だ。

読者が探偵役として物語を紐解いていく快感がある。

 

 

HUNTER×HUNTERという作品は、常に新しい試みに挑戦している作品だと思う。

その最前線が、王位継承戦である。

是非、読んでみて欲しい!

 

 

 

予想

ここからは、自分なりに予想を立ててみる。

メモ代わりに、思いついたまま書いているので、特に後半は読みづらいかもしれない。

妄想の上に妄想を塗りかためながら書いたので、「考察」ではなく「予想」とした。

では予想を書いていく。

 

 

1.子育て論

HUNTER×HUNTERという作品は、

各編の中盤で必ず「ゲーム」パートが存在する。

 

その「ゲーム」が、編全体の鍵になっていることが多い。

 

39巻で出て来た「交渉ゲーム」は「ゲーム」パートだと思う。

結論を先に書くと、「交渉ゲーム」は「親子関係」そのものであると思う。

「交渉ゲーム」では、親は7枚、子は5枚のカードを持っている。

親に与えられるのは、「目的」「能力」「QA」「QB」「Yes?」「No?」「D」の7枚。

「目的」「能力」は親の情報である。

「Yes?」「No?」はこのゲームのルールに関わる情報である。

「QA」「QB」はそれ以外の情報である。フリー雑談カードである。

「D」は親と子の取引が出来るカードである。

「おつかいに行くなら、余ったお金でアイスを買ってきてもいいよ」「テストで良い点が取れたら、ゲーム機を買ってあげるよ」みたいなカードである。

 

「D」以外の親のカードは「情報」であり、親はそれらを全て開示している。

しかし、親のカードは枚数が多いため、子が全てのカードを選択することはできない。

 

子に与えられたのは、「Yes」「No」「J」「R」「X」の5枚。

「Yes」なら親に従い、「No」なら親に従わない。

「J」はいつか「Yes」か「No」を選択しなければならない。

「R」は自分の欲するカードを墓地から戻すことができる。

「X」はこのゲーム自体を無効化する。

これらのカードの全てが裏になっており、親が一枚ずつ指定して墓地に捨てる。

最後に残ったカードが子の「未来」となる。

 

このゲームに近いものでいうと、「ドキドキ二択クイズ」「クロックタワーの多数決ゲーム」「ゴトーのコインゲーム」があげられると思う。

 

「ドキドキ二択クイズ」では、理不尽な二択が出題される。ゲームに参加するかの選択は、「回答者に委ねられる」。回答の中で、それぞれの人となりを見る試験である。クイズの回答は「自分の意思で行える」。クイズの選択肢は二択だが、その選択肢を選ばなくても良い。クイズに対して、「どう反応するのか」「どう行動するのか」自体が回答となる。ただし、その回答による責任とリスクは自分で負わなければならない。いわば、全員がはじめから「R」を持った状態の「交渉ゲーム」みたいなものである。はじめから「R」を持っていること、ゲームへの参加は自分の意思で行えること、ゲームの回答に選択肢がないことが、「交渉ゲーム」とは異なる。それぞれが極限の状態で何を選択するのかという、「キャラクター性」を説明するゲームになっている。

ちなみに、レオリオは「No」を、クラピカは「X」を、ゴンは「J」を選んでいる。それぞれのキャラクター性がよく表れていると思う。(出題者のゲームに乗ることを「Yes」、出題者のゲームに乗らないことを「No」とした場合。)ゴンは存在自体が「J」みたいなやつで、ゼパイルにも危ういと言われている。ただ、ジンには危うさをあまり感じない。どちらかというと、ゴンの二択を超える発想の方に、ジンの血を感じる。存在自体が「J」なのは母親の血筋なのではないかと思う。実はモレナがゴンの母親ではないかと思ったこともある。クラピカが中庸な選択をするのも、レオリオが「No」を即決するのも、後の解釈と全くずれておらず、凄い。レオリオのこういう気質を見て、ジンはレオリオを買っているんだろう。継承戦にレオリオも絡んできたら、どうなるだろう。少しわき道にそれた。

 

「クロックタワーの多数決ゲーム」は、5人が多数決で道を選択していき、クロックタワーからの脱出を目指すゲームである。「ドキドキ二択クイズ」と違って、必ずしも決断の責任を自分だけが追わなくて良い反面、多数決ゆえの難しさもある。「仲間関係」の本質をえぐりとるようなゲームである。回答の責任を回答者が負わなくても良いという部分が、「交渉ゲーム」とは異なる。「交渉ゲーム」は、そもそも参加を強制され、運の要素もあるくせに、その結果の責任を自分で負わなくてはならないゲームである。

 

「ゴトーのコインゲーム」では、「ドキドキ二択クイズ」でのリスクを背負った選択(間違えれば殺されてしまうというリスク)と、「クロックタワーの多数決ゲーム」でのリスクの分散(コインが見えずに、クラピカとゴンでリスクを分散)の両方が出たうえで、それをさらに超える展開となる。ゴンに対して、ゴトーがトリックを見せるが、これはゴトーの行動そのものを説明するゲームである。ゴトーの気迫が、演技だったのか本心だったのか、分からない。もし、ゴンがろくでもない奴だったら、そのまま殺すつもりだったのかもしれない。ゲームの中でゴンを見定めて、キルアを任せるに足ると判断したから、「演技だ」ということにした。そうやって、2択どちらも選べるようにしていたというのを、最後のトリックで示したのだと思う。また、これは「執事」というものの本質でもある。主君が何を選択してもいいように行動し、主君の意見を自分の本音とすることで生き残る「主従の関係」を表していると思う。このゲームは、コインをどちらに持つかを出題者側が決められる点で、「交渉ゲーム」と異なっている。

 

では、いよいよ「交渉ゲーム」について。

「交渉ゲーム」は親側と子側で見え方の異なるゲームである。

 

親側から見ると、こんな理不尽なゲームはないのである。

子の未来は全て裏になっていて、何が選ばれるかは運である。

しかし、必ず選ばなくちゃいけない。

選んだカードは墓地に捨て、子の未来の可能性は絞られていく。

結局は運ゲーなのに、子側から恨まれるリスクを孕んだゲームである。

恨まれるリスクを背負ってでも、ゲームに参加しなければならない。

不信感を払しょくするためにも、親側の情報は全て開示していなければならない。

 

子側から見ても、こんな理不尽なゲームはないのである。

ゲームに参加するのは自分の意思では決められない。

5枚の未来も、ルールも、親が用意したものである。

その選択も自分の意思では決められず、親が指定する。

「R」が残ったとしても、選べるのは5枚の内のどれかである。

親のルールに参加せず、ズルをすると、強制的に「Yes」か「No」を選ばされる。

 

実際はただの運ゲーなのに、「親のせいで」「子のせいで」という不満があらわれる「やるせなさ」を再現した、「親子関係」の「しがらみ」そのものを表現したゲームだと思う。

 

カーミラやロンギ、ベンジャミン、サイレントマジョリティーさんの使う能力の名前は、そのキャラクターの「親子関係」を示していると思う。

例えば、カーミラの「100万回生きた猫」は、佐野洋子さんの名作「100万回生きた猫」からとっている。

この作品は、親子関係にある「非対称なヒエラルキー」への愛憎をテーマとした作品だと思う。

実際、佐野洋子さんも自身のエッセイなどで、母への複雑な心境を語っている。

この作品にも、母への愛憎が込められている感じがする。

そう考えると、カーミラも母子関係で悩んでいるのかもしれない。

カーミラの母子関係でのごたごたが、社会的なコミュニケーションスタイルに出ているのだろう。

母への怒りから、何かに頼ること自体に怒りを覚えるようになったのではないか。

実は、甘えん坊で母に依存しているが、それと同じくらい母に支配されたくないと思っているのではないか。反抗期を激しくしたような状態だ。

何かに依存する自分自身に対しても怒りを感じ、何かに頼ろうとする人間にも怒りを感じるような強い自立心が、彼女の苛烈な性格の本質だと思う。

カーミラの能力自体にも、その性質は表れている。

どうしたって、子は、血のつながりや親からの教育の中で、親の性質を受け継ぐ。

親に怒りを覚えるということは、同時に自分自身に怒りを覚えるということ。

行き場のない怒りは外に向かい、相手を刺した刃で自分も傷つけ、余計に怒りを激しくし、収拾がつかなくなる。

常に、相手に投影をして、鏡合わせに相手を傷つけると同時に自傷をしている。

この辺りが、カーミラの能力がカウンター型になった由来ではないかと思う。

また、その過剰な他者への愛憎から救われるために、「自分は母から生まれたのではない、親はおらず、一人でに生まれたのだ」と妄想することは、ないことでもないと思う。

この辺りが、カーミラの能力の生まれ変わりの由来になっていると思う。

ただしこうやって、自傷的な怒りを振り回していたら、周りから人はいなくなる。

そうすると余計に、関係性が貧しくなり、相対的に母との関係性が強くなる。

そして余計に、母をこの世の悪の象徴のように見てしまうようになる。

何故かずっとイライラしていて、被害妄想の激しい人間になってしまう。

ここから救われるには、母以外の関係性を見つけ出すしかない。

本当に大切に思える何かと出会わないと、この呪縛は薄まらない。

それも、対等な関係性でないといけない。

もしその何かに出会えたら、カーミラは成仏するだろう。

出会えなかったら、悲劇的な最期を迎えるのだろう。

他の能力名も、「親子関係」を想起させるものが多い。

能力名や能力の性質から逆算して考えると、その術者がどういう人間なのか分かってくる。

 

 

王位継承戦自体は、「軍蟻」に近い群像劇である。

しかし、そのプレイヤーは複数おり、それぞれ異なる「目的」を持った「親」である。

「親」は「子」をコマにして継承戦の盤面を使いながら別のゲームをしている。

さらに、必ずしも「子」は「親」のいう事を聞くわけじゃない。

毎ターン、「交渉ゲーム」を行いながら、継承戦の盤面を進めていく。

また、「親」というのは文字通りの親だけではなく、授受の関係性全てをさすのだとしたら、「子」に複数の親から「親の因子」が紛れていることになる。

「子」の中で「親の因子」どうしが争っているようにも見える。

表向きの継承戦は「軍蟻」のようであるが、それを使いながら、サイコロを使って「オセロ」をして、自らの目的のために影響力を行使している奴らがいるのではないかというのが、私の予想である。

 

「親」が誰なのか、「親」の「目的」は何なのか、どのような影響力を行使しているのか、「子」は誰なのか、「子」に入っている「親の因子」とは何なのか、「子」の葛藤するラインはどこなのか。

この辺りを考えながら読んでいくのが良いのかもしれない。

 

 

2.「神龍(シェンロン)」の奪い合い説

「ゲーム」パートが終わると、「ハンティング」パートが始まる。

主人公たちが、「ゲーム」の要素を使いながら、「大いなる脅威」と戦う、アクションパートである。

 

一番難しいのは、「大いなる脅威」を何とするか。

魅力的な脅威が多すぎるのだ。

もしかしたら、今回の「特殊戒厳令」がそれにあたるかもしれないが、別の可能性も探ってみよう。

脅威がありすぎるのが脅威とでも言えそうな王位継承戦だが、流石に脅威を一本化しなければ、風呂敷をたためないんじゃないかと不安である。(富樫さんは天才だからやりとげてしまうのかもしれないが)

何よりも、親の「目的」が違うとするならば厄介である。

どうにか、「脅威」や「目的」を一本化できないだろうか。

 

一本化する方法として考えたのが「神龍(シェンロン)召喚説」である。

14人の王子を棺に納めたら、超念獣「神龍(シェンロン)」が召喚されて、願いを叶えてくれるのではないか、という説である。

欠けたものを集めるイニシエーションと言われて、最初に思いついたのがドラゴンボールである。

富樫さんはドラゴンボールが好きらしいし、あり得るのではなかろうか。

思えば、ベンジャミンバトンの星のデザインは、どことなくドラゴンボールの星に似ている。

14人を贄として、「神龍」が召喚されるのではないか。

 

「神龍」は願いを叶えたら消えてしまうのだろうか。

しかし、ホイコーロ王には念獣がついている。

ナックルのポットクリンも、役割を終えて消えるのではなく姿を変えて居座る形になっているので、念獣も条件によって姿かたちが変わる可能性もある。

「ドラゴンボールGT」を正史とするかは微妙なところだと思うが、例えば、願いを叶えて役割を終えた「神龍」が「邪悪龍」に姿を変えて「祝福の一人御子」につくとすれば、ホイコーロ王に念獣がついているのも説明がつく。

 

もし、「神龍」が召喚されるとして、その「神龍」をどう扱うのだろうか。

「神龍」は「人間性」の結集した「亡霊」であり、それを「人間」たちが協力して立ち向かって鎮めるという展開も面白そうだ。

レイザーとのドッヂボールみたいに、一人で強いボールを放つレイザーに対し、全員で合体して立ち向かうみたいな展開なら熱い。

 

また、「神龍」を奪い合うという展開も面白いと思う。

その「神龍」の奪い合いこそが、本当の継承戦ではないか。

そもそも、生き残った王子が王位を継承するとは、どこにも書かれていない。

ただ「祝福の一人御子」となるまで殺し合えとしか書かれていない。

「神龍」を継承したものが「祝福の一人御子」であり、その「神龍」を継承したものに王位が与えられるのではないか。

 

思えば、この船には「操作系」「具現化系」「特質系」の能力者が大量に乗っている。

この三者こそ、「神龍」によって願望を叶える可能性がある。

「操作系」は「祝福の一人御子」を操ることで、

「具現化系」は「祝福の一人御子」にルールを与えて従わせることで、

「特質系」は「神龍」そのものを奪うことで、

願望を叶えられる。

クロロの能力がアップデートする可能性があるのも、

ボークセンが特質系能力であることも、

クラピカの薬指の能力も、

念獣の能力を奪わせる展開のためではないかと予想している。

つまりこの王位継承戦とは、念獣の奪い合いが前提となった、「えげつねぇ」ゲームなのではないかと考える。

 

奪い合いを見据えて布石をうっているのが、親の策略ではないかと思う。

親は最終的に自分の息のかかった「子」に、「神龍」を奪取させて、自分の目的を叶えさせようとしていると考えると、すっきりと整理された構図になると思う。

 

誰が「親」なのかは、まだはっきりとしない。

また、「親」の「目的」も全然分からない。

少なくとも、ビヨンドは関わってきそうだ。

各王子の肉親の親が関わってくるのだろうか。

赤子の入れ替えがあったり、実はマフィアのボスが実の父親だったりと、いたるところに複雑な血縁関係があるようだ。

さらにそこに、モレナ、ジン、パリストン辺りが絡んできたら面白そうだと思う。

 

 

モレナの目的ははっきりとしない。もしかしたら、本当にこの世を終わらせたいのかもしれない。

「この世」を終わらせて、全員が暗黒大陸という真実と向かい合う世の中を作りたいとか?逆シャアのシャアみたいに、内側の世界をぶっ壊して、無理にでも暗黒大陸に行かなければならないように仕向けるのが目的なのではないか。

うーん分からない。

 

ビヨンドとジンの目的は、結局は「暗黒大陸の制覇」だと思う。

しかし、性格と手段が異なるのではないか。

ビヨンドは一度失敗している。

執念深くカキンの中枢まで入り込み、ここまでこぎつけた。

「待つさ いくらでもな」という言葉は、ビヨンドの執念深さを表しているように思う。

今回は失敗せずに大陸制覇ができるように、成功率をアップする方法を考えた。

それが、王位継承戦による神龍召喚ではないか。

神龍によって、暗黒大陸を制覇できるまで無理やり自分の能力を向上させようとしているのではないか。

 

ジンは初挑戦である。

それに、どこかカラッとした性格である。

目的よりも目的にいたる過程を重視するところに、ビヨンドとの違いがあると思う。

神龍を得たとしても、暗黒大陸に関係する願いを口にしないのではないか。

暗黒大陸という難関のハードルを、わざわざ下げるようなことをしないはずだ。

そんな、攻略本を読んだり、改造してクリアする真似は絶対しないと思う。

それよりも、失敗してもいいから、仲間たちと大陸制覇を目指したいと考えるはず。

 

パリストンはよく分からないが、こいつも存在自体が「J」なやつである。

神龍を手にしたら、それを面白おかしく使おうとするのではないか。

ビヨンドがもし神龍に超能力をお願いしたら、パリストンも冷めるかもしれない。

パリストンの野望をジンが止めるという構図になったら面白そう。

 

 

これらを前提としたうえで、

どのようにクライマックスに持っていくことが可能だろうか。

例えば、完全な妄想だが

⑴ジンは「念獣の力を使って暗黒大陸を制覇したって面白くねぇだろ」と言いながら、ウーロンみたいに台無しな願望を口にして神龍は姿を消す

⑵「邪悪龍」を宝剣によって能力アップしたクロロが盗む

⑶誰かしらが御神体を発見し、破壊して船から脱出できるようにする

⑷クラピカがクロロから「邪悪龍」を奪いワブルに継承する。

⑸小舟にワブルとあと一人誰か、例えばボークセンを乗せて逃がす

⑹ボークセンがクジラ島の波打ち際に漂着し、それをゴンが発見する

⑺ゴンはミトさんと共に、言葉の通じないボークセンを介抱する

⑻例えば、追手のモレナの放った刺客が「邪悪龍」を追ってクジラ島にやってくる。なぜなら、モレナにはボークセンの位置が分かるから。

⑼その結果、ゴン、ボークセン、「邪悪龍」とワブルとともに、モレナの追手をかわしながら、暗黒大陸を目指すことになる

となるのはどうだろう。

その場合、モレナが「邪悪龍」を欲しがる理由が必要になる。

また、ボークセンに戻りたい理由を与えなくてはならない。

「王立軍の同期がどうなったか気になる」とか。

これが私の「未来少年コナン説」である。

ちなみに何の根拠もない。

 

また、さらに

一方、実は船に乗っていたキルア&アルカは、イルミ&カルトと追いかけっこをしていた、とする。現状、イルミ&カルトが蚊帳の外すぎるから、キルアと絡めるのではないかと思った。これも根拠はない。

ジャイロはどうだろう。もう出てこなくても不思議じゃないが、

このBW号に乗って、新天地を目指していても不思議じゃない。

一方で、クラピカ一行、レオリオ、ジン、パリストン、十二支ん、ビヨンドも新大陸に到着し、暗黒大陸制覇のための準備をしている。

こうすれば、重要なキャラクターを全員暗黒大陸に集められる。

 

あるいは、BW号が座礁したとして、近くの島にいくつかのグループに分けて漂着させるのはどうだろう。

クジラ島は実はとんでもなく広いという設定にして、クジラ島に漂着するのも面白い。

ゴンがやって来て呪いを解いていく。

これが私のシェイクスピア「テンペスト説」である。

これにも全く根拠はない。

 

妄想だから絶対当たることはないだろうが、こうやって勝手に妄想を広げて行くのも、連載中の漫画の楽しみ方の一つではないかと思う。

漫画の予想を立てていると、人間が陰謀論にハマっていく理由がよく分かる。

そのエネルギーを漫画で発散しているのだから、悪いことばかりでもない。

 

3.「利」「義理」「人情」

クライマックスで描かれるドラマについて考えてみる。

クライマックスでは、理屈を超えた「何か」が描かれることが多い。

テーゼ(A)とアンチテーゼ(B)を戦わせて、ジンテーゼ(AB)を描く。

表裏一体の回答を見せて終幕となる。

 

今回、各キャラクターには「利」「義理」「人情」の3つが必ず与えられている。

「利」とは、その名の通り、自らの目的や快楽のために行動すること。

「義理」とは、道理や役割に沿った責任ある行動のこと。自らの利益に反することも多い。「したい」からするのではなく、「すべき」だからするのである。忠臣蔵などは、自らの「義理」に従って仇討ちをする話になっている。

「人情」とは、目の前の人間にたいして立ち現れる、自然な親愛や恋慕のことである。例えば、許嫁のいるお侍が花魁に恋をして駆け落ちをするなど。花魁に恋しても「利」にはならないし、自分の親や許嫁の親に「義理」を果たせないが、それでもどうしようもなく好きになってしまったということである。

 

「利」「義理」は、ロジカルかつ言語化可能なものであるのに対して、「人情」というのは、ロジカルな世界から抜け出すための抜け道だ。

「利」「義理」などのロジカルな世界観で閉じた物語は、必ず「悲劇」となる。

今までの、HUNTER×HUNTERが、人が死にながらも、「悲劇」と呼べないのは、必ずそれを超えた「人情」で物語をしめるからだ。

例えば、ヨークシン編では、「旅団」の「義理」を捨て、自らの命を守るという「利」も捨てて、同じ仲間たちへの愛という「人情」のために、パクノダがメモリーボムを打ち込むことで、物語が完結する。職場恋愛みたいな話だなと思った。

キメラアント編では、コムギは「王」という肩書にも、蟻と人という種族の違いに目もくれず、命を投げうって、一人の「メルエム」と軍蟻をうちながら看取る。結婚、子育てなどの紆余曲折を経た熟年夫婦の最期みたいだった。

 

HUNTER×HUNTERを考察する人は、わたしも含めて、どうしても「利」や「義理」の織り成すロジックが好きな人だと思う。

しかし、HUNTER×HUNTERという作品は「利」と「義理」を前提としたうえで、「利」と「義理」の間にある「人情」を描く作品だと思う。

「利」や「義理」はそのための舞台装置だ。

また、「理屈じゃないもの」を描くための「理屈」を道中として楽しむ作品でもある。

 

各キャラクターに「利」「義理」「人情」が配置され、それがどう転ぶのか全く予想がつかない。そこが、王位継承戦の面白さだと思う。

 

例えば、もし第五王子のツベッパがビヨンドの息子だったら、ロンギはどうなってしまうのか。自らが忠誠をつくしているツベッパ(義理)が、実は自分の復讐相手(利)だと知ったら、彼女はどう転ぶのか全く分からない。

 

例えば、クラピカはどうだろう。ツェリ―ドリヒから緋の目を奪還するという「利」と、同胞を殺した旅団への報いという「義理」と、協会員としての立場という「義理」、そしてオイトやビルへの親愛という「人情」でクラピカというキャラクターは均衡が保たれている。しかし、緋の目あたりの設定がきな臭い。実はクラピカの全てをひっくり返すような「真実」が隠されているかもしれない。それをクロロから告げられたらどうだろう。どうなってしまうのか全く分からない。

 

旅団もゆれている。ヒリンギたちもゆれている。

彼らがどう転び、どう行動するのか、全く予想がつかないのが凄い。

 

私としては、「利」と「義理」を因子として与えているのが、実は「親」たちなのではないかと思っている。(親とは血縁上の親だけではない)

親たちは自らがまいた種が、どのように花開くのか分からない。

その「どう転ぶか分からないこと」を制約として、自らの大願を成就せしめようとしていると予想する。

旅団結成やクルタ族虐殺にまで「親」たちが関与しており、一本の線で繋がったら、それは凄いことだ。

 

 

最終的には「人情」で落とすのだろう…

 

………と思っていた。39巻を読むまでは。

 

39巻を読んでから、少し考え方が変わった。

「義理」や「利」は「人情」ではないなどと言ってしまったら、少し寂しくはないか。

例えば、人を好きになるのは「性欲」という「利」のためだと言ったら悲しくないか。

もちろん、突き詰めれば「性欲」なのだろう。

でも、全てが「性欲」と言ってしまっていいのだろうか。

この世の全てが「性関係」だとか「権力関係」だとすれば、フェミニズムのような論調になる。もちろん、つきつめて分析すればそうなのかもしれないが、我々は普段、そんなことを考えて過ごしていない。やっぱり、全てを「性」や「政治」に押し込めるのは違う気がする。

「この気持ち………まさか!恋!」みたいに、「恋」なのか何なのか分からない、あいまいなものに押し込めるから、その情熱は続いて行く。それが、「友達」「恋人」「結婚相手」というフォルダーに分けて、割り切ってしまった瞬間に、その情熱は消えてしまうのかもしれない。お互いの存在に興味があるような関係性ではいられない。でも、今度は肩を並べて同じ方向を目指すことができるはずだ。もちろん、肩書に縛られるが、そこに人情はないと言われたら、そんなことはないと言い返すはずだ。

では、「親子」はどうだろうか。「親子」は、お互いの馴れ合いのために必要だという「利」がある。そして、「親子」は、それぞれの肩書に従って、お互いを守るべきであるという「義理」がある。そしてお互いの存在への愛という「人情」がある。親子には「人情」があるにもかかわらず、ついついその感情を「利」と「義理」に変換して考えてしまう。そうやって、「利」や「義理」というしがらみとして考えること自体も愛の一部ではないのか。「人情」だけが正しいんだとしてしまったら、全てのしがらみを避けるために、「親子」はいらないということになってしまうではないか。

 

「利」と「義理」と「人情」を一体にして、その区別をつけない感情にこそ、答えはあると思う。

そこを見つけ出すのが、クライマックスまでの目標である。

各キャラクターに与えられた全ての因子の一致する所を見出すのだ。

 

キメラアント編までは、「義理」や「利」を超えた「人情」が描かれてきたと思う。

しかし、アルカ編からは違う。

アルカ編は、幼子の子育てに近いものだと思う。

アルカのルールに振り回されて、てんやわんやという感じである。

クライマックスでは「兄弟愛」という絶妙な所でおとした。

「兄弟」というのは「義理」とも「人情」とも判断できない。

非対称のヒエラルキーを前提とした愛である。

 

「親子」も同じである。

非対称なヒエラルキーを前提とした関係性の面白さを、作者は発見したのではないかと思う。

 

「利」なのか「義理」なのか「人情」なのか、

判断のつかない一致点を目指して、物語は進んで行くと予想する。

表裏一体の答えを出すというのは今までと一緒だが、「利」「義理」「人情」の一体となった感情を描くならば、全く違った展開となるかもしれない。

理屈を超えるのではない。

理屈と一体になったラストが見られるんではないか。

 

結局ラストがどうなるか、全く予想がつかなかった。

物語がどう転んでいくのか。楽しみである。

 

「交渉ゲーム」では、「X」を目指し、「R」が残るようにズルをした結果、「R」が残ったにもかかわらず、「J」に変化してしまった。

ここで描かれたことの意味が大事な気がするが、まだ分からない。

今後、考えていこうと思う。

 

4.「新しい念体系」と「クトゥルフ神話」

HUNTER×HUNTER各編の物語構造は共通していると話したが、実は作品全体にまたがる多重構造である。

 

↓↓↓

 

 

 

このまとめ方が正しいなら、物語は一度GI編で終わっていることになる。

GI編までを「第一章」とする。

⓪から出てくるキャラクターは、ゴン、クラピカ、レオリオの3人であった。

ゴンはジンを追う。

クラピカは幻影旅団を追う。

レオリオは医者になりたいと考える。

ゴンはアカンパニーを使ってジンの元へ向かう。

GI編からカイトに出会って以降は、ゴンにとって「ジンに会いたい」という目標は二の次になる。かわりに「これはジンの試練に違いない」として、成り行きに任せる展開に変わる。

クラピカは幻影旅団と戦って以降は、旅団への復讐よりも緋の目の捜索に重きを置くことになる。

レオリオはGI編のタイミングで、医者の資格をとるために別れる。

⓪でそれぞれのキャラクターの目的が示され、それを回収し終えたことで、第一章は終わっている。

第一章において、描かれる「大いなる脅威」は「幻影旅団」と「ジン」の存在であり、それも回収している。

第一章における「③ゲーム」は、「天空闘技場編」である。

つまり「念能力」というのが、第一章全体の一つの大事な要素となっていた。

 

では、第二章はどうなるのか。

第二章では、「暗黒大陸」というのが大事な要素らしい。

キメラアントもナニカも暗黒大陸出身であるらしい。

蟲虫卵の儀なども暗黒大陸から来たものだとするならば、全てが暗黒大陸につながる。

 

第二章の「③ゲーム」パートが今回の「王位継承戦」であるならば、第二章を貫くルールとは一体何なのだろうか。

 

第二章を順に見ていく。

まず、GI編について。

この編で驚かされたのは、除念師の存在である。

ここで初めて念獣という概念が出てきている。

また何よりも驚かされたのは、「大天使の息吹」の能力である。

怪我や病なら「何でも」直せるというのは、GIというゲーム上でしか使えないことや、カード化限度枚数の制約があってなお、強すぎやしないか、と思った。

また、GIではスペルカードという概念が出てくる。これも面白い。

ゲーム上なら誰でも能力を使えるというのがみそだ。

能力にはそれぞれ得意な系統があるが、能力をカードのような形で貸与できれば、メモリーの制限を超えられるということだ。

さらに、スペルカードの攻撃はスペルカードでしか防げない、という設定が出てくる。

スペルカードに似ているのは、操作系能力である。

条件型の操作系能力は、条件さえ満たしてしまえば避けることができないという怖さがある。

(具現化系でも、場にルールを設けることで、無理やり従わせることが可能である)

さらに、術者が死んだら、死後強まる念によって、さらに収集がつかなくなる。

王位継承戦では、このように回避できない能力を「呪い」と呼んでいると考える。

 

次に、キメラアント編である。

キメラアント編で驚いたのは、念系統の無視である。

ナックルは性格的には放出系っぽいのに、使ってくるのは具現化系能力である。

また、パームは強化系であるにもかかわらず、特質系のような能力を使っている。

よくよく考えれば当然だ。

強くなりたいのであれば、メモリーの無駄遣いをすべきではない。

しかし、実際は強くなるよりも、チームの中で有用な能力を選ぶ人間もいるだろう。

チーム戦を想定するならば、合理的である。

ノブがポータルを開き、モラウが攪乱、パームが情報収集、ナックルが相手を絶にして、シュートが相手を無力化するという風に役割分担が出来ていて、パーティー全体で協力しながら敵を倒すのである。

実践では全く上手く行かなかったのも含めてリアルである。

 

また、ネテロは、ちょっと分からないが、百式観音を具現化しているならば、具現化系と放出系の能力を同時に使っていることになる。

ネテロは強くなりたい人であるはずなのに、メモリーの無駄遣いをしている。

さらに、ゴンは強化系であるにもかかわらず、ゴンさんになる。

これは強化系能力と言えなくもないが、あまりにも常軌を逸している。

どういうことなのか。

ここに、我々の知らない新しいルールがあるのではないか。

 

さらに、アルカ編において、ナニカの能力が出てくるが、これが完全にぶっ壊れ能力になっている。

「何でも願いを叶える能力」そして「触れたものなら何でも治せる能力」。

「何でも切れる刀」は具現化不可能であるはずなのに。

制約と誓約というレベルを超えた、人智をはるかに超えた能力である。

また、ナニカの能力には、ジャパニーズホラー感がある。

「呪いのビデオ」を見ただけで殺されるとか、佐伯家に住んだだけで殺されてしまう理不尽さがある。

ナニカの能力は、「祟り」と呼ぶのがしっくりくる。

ナニカの本質は、祟り神や地縛霊に近いと思う。

そのナニカが、アルカに取り付いているということなのではないかと考える。

同時に、ナニカは触れることで治すという「癒し」の能力も持っている。

 

王位継承戦では、蟲虫卵の儀というのが行われている。

蟲虫卵の儀では、殺し合わなければ外に出られないという「制約」と、それを順守することで望む願いを叶えるというような「誓約」が働いていると思う。

そもそも「制約」と「誓約」は別のものだと考える。

「制約」とはルールであり、「誓約」とはルールを順守すること。

王位継承戦では、「制約」だけがポンと置かれている。

その「制約」に従わないものが、淘汰されていくことで、結果的に「誓約」しているという形態である。

ククル―マウンテンから脱出するときの、アルカへのお願いみたいに、条件をつけて、どう転んでも良いようにするという方法があり得る。

王位継承戦で、「制約」=ルールを作り出すもの、「誓約」=ルールを守らせるものというのは、実は別モノなのではないかと考えた。

場にルールを設けて、無理やりそれに従わせる中で、遵守したものだけが生き残り、力を手に入れていく、「イニシエーション」である。

 

そして、全てが暗黒大陸に通じている。

キメラアントも、ナニカも暗黒大陸出身らしい。

ネテロも一度は暗黒大陸に渡航したことがあるという。

例えば、蟲虫も暗黒大陸から来たものであり、ゴンも赤子の頃に暗黒大陸に行ったことがあるならばどうだろう。(ちなみにわたしは、ゴンがドンフリークスの生まれ変わりではないかと思っている。根拠はない)

そうすれば、暗黒大陸に全てのルールが集約される。

 

暗黒大陸に行くためには4つのものが必要だと言われている。

「許可」「手段」「資格」「契約」の4つだ。

「許可」というのは、V5の許可を得ることだと思う。

ビヨンドがカキンを引き入れたことで、V5の許可を得て、残るは3つ。

「手段」「資格」「契約」

 

「手段」というのは、暗黒大陸を攻略するための手段のことだと思う。

もし暗黒大陸を攻略するならば、チーム戦になる。

一番合理的なのは、戦闘系能力者にレア能力を貸与し、レア能力者は安全なキャンプに残って待機、放出系能力者がセーブポイントを作って、セーブポイントから戦闘系能力者が出発する方法である。

キメラアント編もこれに近い方法で、城に潜入している。

となると、レア能力者の出番は暗黒大陸では少なくなるから、出番を与えるために船で戦わせているのではないかと思う。

そう考えると、GIというゲームは暗黒大陸を見据えて、ジンがデザインしたものではないかと思えてくる。

王位継承戦では、暗黒大陸由来の能力と、その能力を克服する術を先鋭化しているのだと思う。

これがおそらく「手段」であると思われる。

 

「契約」とは、暗黒大陸由来の能力を手に入れることだと思う。

暗黒大陸由来の能力とは何だろう。

今まで、暗黒大陸出身者の念能力が強すぎると考えていた。

実はそれは逆なのでは。

つまり、「念能力」とは暗黒大陸からの祝福の一部なのではないか。

念能力を含むさらに大きなルールが暗黒大陸にはあると思う。

もしかしたら、人間そのものが暗黒大陸の出身かもしれない。

暗黒大陸に住まう上位種と契約した証として、「人間」が「人間としての能力」を賜ったという設定ではないか。

とんでも能力の上位種からその一部を貸与してもらってる、みたいな。

制約を使えば、限定的に上位種に近づけるみたいな設定ではないか。

また、「特質系」は他の系統に属さないその他の能力とされているが、実は暗黒大陸のルールでなら体系化できるのではないか。

 

もし念能力が暗黒大陸からの祝福だとするならば、クトゥルフっぽくてワクワクする。

暗黒大陸編では、富樫先生流の「信奉者vs邪神ハンター」が見られるかもしれない。

信奉者は暗黒大陸由来のとんでも能力を使い、それに非力な邪神ハンターが対抗していくという展開である。

パリストン=ニャルラトホテプ枠だったりして。

モレナはアイホートみたいだなと思った。

旅団は蜘蛛だし、アトラック=ナチャではないか。

ジンには人であって欲しいから、ランドルフカーター枠であって欲しい。

 

 

思えば、「交渉ゲーム」のルールもTRPGっぽいし、もしかしたら参考にしているのかもしれない。

プレイヤー同士の争いだと思っていたところに、秘匿情報が示されて、脱出ゲームに変わって行く。

このゲームチェンジしていく感じも、よく練られたTRPGのシナリオに似ている。

上位種と眷属にとっても、KPとPLにとっても、広義の意味で「親子」である。

 

別作品のネタバレになって申し訳ないが、「葬送のフリーレン」という作品に、「ユーベル」というキャラクターが出てくる。

こいつは、「大体なんでも切れる魔法」というのを使う。

切れると想像できるものは切れるという設定である。

「ユーベル」は何でも大体切れる感じがするから強いのである。

この作品では、想像することさえできれば、魔法で何でもできるのである。

しかし、精密に想像することは難しいから、体系立てているのである。

もしかしたら、HUNTER×HUNTERの制約も同じ原理ではないか。

「何でも切れる刀」を具現化不可能なのは、人間が想像し得ない能力だから。

人間の能力の限界を超えているから、具現化不可能である。

ただし、人間を超えた上位種であれば、それは可能なのではないか。

制約と誓約とは言葉遊びのような「祈り」である。

「祈り」によって上位種の能力の断片を、想像し得る形に降ろしてくることができるのではないか。

 

今後は、「何でも叶える」人智を超えた存在を、信仰の対象やアイテムとして外部に置いて、「祈り」を行うことで、その力を得ることができるという設定にしていくのではないか、と考える。

ネテロの能力が開花したのは、常軌を逸した「感謝」が「祈り」として上位種に届いたからではないか。

ゴンがゴンさんになれたのは、常軌を逸した「強い意思」が「祈り」として上位種に届いたからではないか。

 

さらに、「祈り」の形態によって体系化していくのではないかと思う。

それが、「呪い」「祟り」「イニシエーション」などではないか。

現在、民俗学的な設定が数多出てくるのは、「呪い」「祟り」や「イニシエーション」のルールを説明して、それを使って念能力を再定義するためだと思う。

操作系の本質は、条件を満たした対象を確実に攻撃できる「呪い」である。

具現化系の本質は、場にルールを設けて、相手に無理やり参加させる「イニシエーション」だと思う。本来姿なき神様にたいして、偶像や経典を与えて、人間に想像しうる形におとしめることができる人々だと思う。

強化系の本質は、「癒し」だと思う。

特質系の本質はまだ分からないが、神様をそのまま降ろせる「巫女」のような人達ではないかと考えている。

変化系や放出系は全く分からない。

 

具体的に、暗黒大陸の厄災について考えてみる。

五大厄災は「兵器 ブリオン」「ガス生命体 アイ」「双尾のヘビ ヘルベル」「人飼いの獣 パブ」「不死の病 ゾバエ病」の5つである。

五大厄災は、それぞれ人間の違った側面を表していると予想する。

 

例えば、「不死の病 ゾバエ病」とは、人間の「生命」そのものを表している気がする。

ネテロが長命だったのは、「不死の病 ゾバエ」によるものではないか。

 

大切なのは「人飼いの獣 パブ」である。

これは、まさに制約と誓約の説明になっていると思う。

説明をしている絵の中で、人間が何者かに生気を吸い取られているような描写になっている。

「人飼いの獣 パブ」は、人間の「人間性」=「念能力」の性質を表していると思う。

人間は自らの人間性を費やしながら、その結果としての能力を得る。

その能力を形として表すのが、念獣ではないか。

念獣は人間性を吸い取ることで、一つの形を得るスタンドのようになる。

百式観音はネテロの常軌を逸した鍛錬、ドクターブライスはカイトとの戦いといったような、何かしらのイニシエーションを経て、能力を開花させたため、通常の念とは異なるルールで動いているのではないかと思う。

蟲虫卵の儀も、そのようなイニシエーションを目指している。

その果ては、「何でも叶えることのできる能力」ではないか。

「大天使の息吹」もこれに近い。

「大天使の息吹」は暗黒大陸から持ち帰った祝福である可能性も考える。

「イニシエーション」こそが「人飼いの獣 パブ」のルールではないか。

 

では、「ガス生命体 アイ」は何か。

「ナニカ」はおそらく「ガス生命体 アイ」である。

アイはアルカの中に宿った別人格のように描かれている。

「生まれ変わり、肉体に寄生することで生きながらえる生き物ではないか。

人間の中の、受け継がれる「魂(意志)」を表している気がする。

 

 

残りの三つの厄災も、人間の何かしらの側面を表しているのではないかと思う。

特質系とされた能力も、厄災によって体系化できるのではないか、と考えている。

どのアイテムがどの厄災由来のものであるかを考えていく必要があるだろう。

 

蟲虫卵の壺は、パブのものだと考える。

壺のデザインがパブに吸い取られている人間の顔に似ている気がする。

蟲虫卵の儀の「制約」を司っていると思う。

 

御神体は継承戦のルールを守るものと予想している。

ルールを守るというのが番人っぽいので、ブリオン由来のアイテムではないか。

蟲虫卵の儀の「誓約」を担っていると思う。

この船から脱出できないのは、この御神体の作用だろう。

ブリオンのルールを考えるうえで大事かもしれない。

脱出を考えるならば、御神体を探し出し、壊す必要がある。

壊し方に注視すれば、ブリオンのルールが分かるかもしれない。

根拠は全くない。

 

宝剣は継承されて行くものであるから、アイ要素ではないか。

ゴンがゴンさんになったような、能力アップのための何かが、この宝剣に隠されていると思う。

クロロが盗むべきはこの宝剣だと思うが、果たして。

 

今まで念能力とは自分の中から生み出される生命エネルギーという設定だった。

そのルールを逆転させ、実は暗黒大陸からの祝福だったとするのではないか。

アイテムや念獣、謎の生き物や、能力の貸与という形で、人間の外部から来るものによって体系化していくのではないか、と予想した。

人間が自分たちの能力だと思っていたものが、実は人間の上位種が眷属として与えた能力だったのではないか、という説である。

 

第二章の「大いなる脅威」として挙げられるのは、暗黒大陸とパリストンだと思う。暗黒大陸編では、五大厄災のルールを使いながら、パリストンとぶつかり合うに違いない。

 

ハンターたちは、暗黒大陸にどう対処していくのか、具体的な方法はまだ見えない。

暗黒大陸由来の能力は、ナニカや蟲虫卵のような、ぶっ壊れ能力ばかりかもしれない。

スペルカードのように、条件さえ満たせばかわすことのできない「呪い」や、

ナニカの能力のように、無関係な人間まで贄とする理不尽な「祟り」や、

蟲虫卵の儀のように、場にルールが設けられて、強制的に参加させられる「イニシエーション」、

などの脅威に対して、人間たちはどのように対抗していくのか。

また、「資格」というのもよく分からない。

暗黒大陸の攻略方法や「資格」について考えつつ、続きを待とうと思う。

 

 

追記:王妃と子供たち

各王妃の中でも、個人的に一番謎が多いのは、ドゥアズルである。

そもそも、何のためにハルケンブルグの母親を入れ替えているのか。

ハルケンブルグが実の子でないことを知らずに育てていたのだろうか。

知っていたなら、どういう気持ちで育てていたのか。

ドゥアズルは謎の多い御人である。

キャラデザを見ても、他の王妃と王子は似ているのだが、第二王妃は誰とも似ていない。

唯一カーミラとは似ている気がするが、ドゥアズルはカーミラに対して冷たい印象を受けた。放任主義と言われれは、それまでなのだが。

実は、ドゥアズルの子供は一人もいないのではないか。

不可持民の子供を王子と偽って育てていたとか。

もしそうなら、ドゥアズルはどういう気持ちで子供を育てていたんだろう。

カーミラもうすうす気がついてて、だからこそ反発して余計に驕った態度をとるという説はどうだろうか。ないか。

カーミラが、不可持民に優しいのも、自分が不可持民の子供だと気がついているからなど、妄想がふくらむ。

ルズールスのキャラデザは、マフィアのボスに似ているので、そことの親子関係があるのかもしれない。

ツベッパの血縁関係は見えてこない。

チョウライ陣営、ツベッパ陣営、オイト陣営の動きは一見似ているが、その実全然違う。

オイト陣営は、とにかく生き残ろうと、必死に膠着状態を狙っている。

チョウライ陣営は、自分が王になったあと、将来の政治も見据えて、下位の王子も保護しているという立場だと思う。

その中で、ツベッパだけがよく分からない。

ツェリ―ドリニヒに近づいて、上の三王子を粛清すべきよと言う。

王になるためではなく、上位三人を王にさせてはいけないから、共闘を申し込む。

また、クラピカが優秀だから引き抜けとまで言っている。

それも、政治のためというよりは、自らの研究のためという風に見える。

さらに、彼の念獣は政治的でなく、研究向きの能力である。

本人の性向を表したものだろう。

操作系の念獣ばかりの中で、ツベッパの念獣だけが異質である。

本質的に政治に興味がない人なのだと思う。

彼の行動を追っていると、継承戦の中で殺しあわずとも、継承戦に生き残る可能性があることを理解しているのではないかと思えてくる。

そして、継承戦で生き残った後のために、ヘッドハンティングまでしている。

分からない。

 

セヴァンチがモモゼに冷たかった理由は何だろう。

もしかしたら、モモゼも実子じゃない可能性もあるのかもしれない。

あるいは、実はマラムーヤがビヨンドの息子であるから、大事にしているとか?

これも、分からない。今後考えてみる。

 

 

追記:ゴンの能力について

ゴンの能力が「特質系」に変わったのではないかという説を、たまたま流れて来たYoutubeの考察スレまとめで知った。

ゴンの能力=特質系説をベースに、さらに予想を膨らませてみる。

 

ゴンが能力を失ったきっかけは、ピトーとの戦いである。

「もうこれで終わってもいい」という覚悟で、

ピトーを倒せる年齢に無理やり成長する。

その間の鍛錬をすっとばして、最強の自分という「結果」だけを手に入れ、ピトーを一撃で倒してしまう。

その代償としてボロボロに干からびて意識不明の重体になったゴン。

 

そんなゴンを救うため、キルアが頑張る物語がアルカ編である。

ククル―マウンテンに囚われている、キルアの弟(妹?)であるアルカ。

アルカにはナニカという別の人格のようなものが憑いている。

アルカとナニカには人智を超えた能力が備わっている。

アルカの「おねだり」を三つ叶えると、ナニカに変身する。

ナニカに「お願い」をすると、「お願い」を叶えて、アルカに変身する。

願えば何でも叶えてくれる。

しかも、願った本人に何の代償もなく叶えてくれる。

しかし、その「お願い」が難しいほどに次のおねだりの難易度が高くなる。

お願いを叶えるという「結果」を手にして、過程の難しさは次の「おねだり」の難易度に転嫁され、別の人間に代償を支払わせるシステムである。

 

ゴンは、最短距離で「結果」を求めて破滅した。

また、ナニカによって代償なしで治癒するという「結果」を得ている。

さらに、「ジンを見つける」という「結果」も手に入れてしまう。

それに対して、ジンは「道草を楽しめ」というアンチテーゼで返している。

「結果」だけを得たペナルティとして、ゴンにオーラが見えなくなったのだと思う。

これからのゴンの物語は、「結果」と「過程」の問題に対するアンサーが見つけていくことだと思う。

 

例えば、私は絵日記を書くのが大好きで、毎日書く。

コピー用紙に描いた下手な絵と文章をスクラップにペタペタ貼る瞬間が楽しい。

別にネットで共有することもないし、他人に見せもしない。

社会とか、なりたい自分とか、そういうものから解放され、出来上がったスクラップを見て、ひとり悦にひたる。

ただ気が休まるからやっている。

わたしは、衣食住とあとは紙と鉛筆さえあれば、生きていける。

また、他にやらなくちゃいけないことがあっても、ついやってしまう。

本当に好きで享楽していることというのは、「ついやってしまうこと」だ。

良い言い換えがあった。「時間を忘れて没頭する」。

「時間を忘れて没頭する」ものは人によって違う。

それぞれの偏りの中から個性が生まれてくる。

 

ゴンはどうだろうか。

一見すると、ゴンは好きなように行動している。

しかしそれは、ジンの作った枠の中で行動しているに過ぎない。

それ以外は、友人たちのために動く。

・ジンを追ってハンター試験に向かう。

・キルアのためにククル―マウンテンへ。

・ジンを追ってG.I.を探す。

・クラピカと幻影旅団を止めるために人質交換へ。

・ジンの作ったG.I.をプレイする。

・ジンを追ってアカンパニーでニッグに向かう。

・ジンの試練だと思ってカイトについてNGLへ。

・カイトを治してもらうためと、ピトーへの怒りを胸に東ゴルドーへ。

ゴンは、意外と流されるキャラクターであるし、

行動を他人に依存しているキャラクターである。

確かに、ゴンはルールの決まった場においては、そこから抜け出す発想力を見せる。

しかし、平場では実は動いて行かないキャラクターである。

向うから困難が来てくれなければ、何もしないキャラクターだ。

つまり、「好きなこと」がないのだ。

享楽する何かがない。人生を捧ぐに足るものがない。

だから、思いついたことを試すためだけに、簡単に命を捧げてしまう。

リスクを全く恐れずに、スリルを感じる方に行動してしまう。

ゴンというキャラクターの強さと危うさはここにある。

「あんたはフローレス。傷のない原石。」

何者にでもなり得るが、何者にもなっていない。

それが、現在のゴンだと思う。

 

享楽するものを見つければ、「過程」がすなわち「結果」である。

それが「これからずっとこれしかないという生き方」だと思う。

キルアにとっては、それはアルカを守ることだった。

キルアの「一生かけて守る覚悟」のように、

ライフワークや生き様を見つけ出すことが、

これからのゴンの物語だと思う。

 

念能力とは本来その人の「個性」を表すものである。

例えば、キルアは電撃の拷問を受けていたという過去から、電気を能力にしている。

カンムルを会得したことで、アルカを抱えて守ることができるようになる。

「過去」によって生み出された「個性」。

その「個性」を使って、アルカを守るというライフワーク、「未来」につなげた。

 

それに比べると、ゴンというのは、やはりよく分からない。

序盤に使っていた釣り竿はどこかに消えてしまった。

何となくの思い付きで決めた、邪ジャンケンで戦う。

自分の個性と関係なく、後から決めている点では、クラピカに似ている。

クラピカは理性で能力を決めているのに対して、ゴンはフィーリングで決めているのが違いだと思う。

 

今回は、ゴンがゴンさんになったという「過去」を捨ててはいけないと思う。

邪ジャンケンの性質も捨ててはいけないと思う。(釣り竿は分からない。)

その「過去」と「個性」を捨てずに、「未来」につながる能力を考えねばならない。

 

ゴンはどういう「未来」を思い描くのか。

一生かけても倒したい奴ができるのでは、ヒソカやピトー戦と変わらない。

一生かけて強くなりたいとか、達成したいことがあるとかは、はじめからその目的で動いていないことから、難しいと思う。

助けたい人ができるというのはいいと思う。

その場合、「助ける能力」が必要になって来る。

守りたい人ができるのもいいのかもしれない。

その場合、「守る能力」が必要になって来る。

邪ジャンケンには「助ける能力」も「守る能力」もない。

 

ただ「助ける能力」「守る能力」の難しい所は、物語に絡めることだ。

一応、HUNTER×HUNTERはバトル要素もある漫画である。

その中で、ヒーラーというのはかなり立場がない。

 

しかし、アルカ編以降、王位継承戦では、戦いの性質が変わった。

「呪い」や「イニシエーション」から脱出する戦いである。

敵を倒しても、死後強まる念によって、脱出が難しくなるだけである。

いわば、固有結界や領域展開のような空間から脱する能力が必要だ。

操作系能力の効果を祓う能力、具現化系能力のルールを破る能力。

そういう能力が必要になってくる。

 

ここで、ハンター試験編に話を戻す。

クラピカとゴンの会話を見てみる。

3次試験の「クロックタワーの多数決ゲーム」では、ギリギリの二択の中で、ゴンは、長く困難な道から入って、壁に穴を開け、短く簡単な道に入るという荒業を思いつき、結果5人全員で三次試験をクリアする。

そんなゴンにたいしてクラピカはこんなことを言う。

「極限の精神状態で二択を迫られてなお、それをぶち壊す発想ができる。そこがお前のすごいところだ」(HUNTER×HUNTER 3巻)

この「脱出力(発想力)」がゴンの「個性」である。

 

4次試験の「プレートの奪い合い」では、ヒソカに屈辱を与えられたゴンが、クラピカとレオリオを見つけ出し、クラピカとレオリオのために頑張ったおかげで、3人とも4次試験に合格する。

ゴンは後にクラピカにこんなことを言う。

「だから誰かのそばにいて、誰かの役に立ちたくなった……のかな」(HUNTER×HUNTER 4巻)

それに対して、クラピカはお前のおかげで私たちはここにいると言い、感謝を伝える。

「仲間思い」で仲間のために行動するのかゴンの「個性」である

 

さらに、ゼパイルやビスケが看破した「危うさ」。

この「危うさ」もゴンの「個性」である。

 

「脱出力」「仲間思い」「危うさ」がゴンの本質だと思う。

一つ目は、「脱出力」という個性だ。

一見、脱出不可能に見える「呪い」や「イニシエーション」でも、ゴンにかかれば抜け道を見つけられるはずだ。

「脱出力」は「助ける能力」に象徴されると思う。

その「脱出力」という個性が形を変えて「助ける能力」に繋がるとする。

 

二つ目は、「仲間思い」という個性だ。

自分の目的とは別に、仲間の為に行動するのが本質だと思う。

「仲間思い」が形を変えて「守る能力」に象徴されると思う。

 

三つ目は「危うさ」という個性だ。

これは、リスクを省みずにスリルを求める性質である。

これがゴンの恐ろしさである。

何かしらの「攻撃能力」に象徴されるのではないかと思う。

この三つを邪ジャンケンのような形で出せる能力にするのではないかと思う。

 

「助ける能力」を特質系能力、

「守る能力」を具現化系能力、

「攻撃能力」を操作系能力として、

この3種類の能力を繰り出せる「念獣」をスタンドのように宿らせるのではないか。

スタンドのデザインはゴンさんにして、ゴンがピンチになったら登場するみたいな。

ピンチになったらスタンドが現れるというのは、少しハンターハンタ―に合わないだろうか。

(エンペラータイムは緋の目の間だけ発動する能力である。そんな感じで、条件や時間制限ありで使える能力にするのではないか。前々章で、特質系は「巫女」のように、上位種を身に宿らせる能力というのが本質ではないかと予想した。ある条件を満たせば、スタンドが表れるという設定にするのではないかとも思う。)

特質系は習得率などは関係ないので、具現化系や操作系能力はなしで、特質系を授かるだけで、基本は強化系のままなのかも分からない。

しかし、この3つがアルカ編以降の戦闘スタイルに合っている気がするのだ。

 

 

 

他作品の話になってしまって申し訳ないが、ジョジョを読んでいる時に、スタンドバトルをスタンド使い以外が見たらどう見えるのかを想像することがある。

SF小説のように、その世界の常識や理自体が変わってしまっていて、自分がスタンド攻撃を受けていること自体に気づかないに違いない。

もし「スタンド使いでない者」と「スタンド使い」が戦う場合はどうなるのか。

スタンド攻撃を受けたことに気づかづ、常識改変がされ、違う理の世界に閉じ込められるに違いない。

その中で、何かしらの違和感を見つけて、抜け出すための糸口を見つけ出し、イニシエーションをすることで、世界から抜け出すというところでお話を作ってくと思う。

それこそが、人智を超えたアイテムを持つに足る「資格」ではないかと思う。

令和のバトル漫画はこういう設定のものが多い印象がある。

 

現在、ゴンは念を見ることができない状態である。

この状態のまま、暗黒大陸に向かっても面白いと思う。

ただし、見ることはできなくとも、「念獣」がスタンドのように憑いている状態で。

はじめは日常に起こる怪奇現象みたいな感じで、追手たちとの戦闘が描かれ、

そこから、ラスボスのような存在が出て来て、そいつを倒すために仲間を集めて暗黒大陸に向かうという展開が熱いのではないか。

ゴンは念が使えないから、簡単に違う理に閉じ込められる。

しかし、同時に「念獣」が道しるべになり、何かしらの違和感を発見する。

持ち前の、「脱出力」と「危うさ」を武器に、敵の「念獣」が作り出した理を打ち破るという流れで物語を作っていくのではないか。

イメージで言うと、最近の能力バトルものではなくて、ハンター試験編のような雰囲気に戻るのではないかと思う。

一人一人との戦闘が、一つのハンター試験のようになっていくのではないか。

(ただし、これは滅茶苦茶難しいと思う。毎回、「クロックタワーの多数決ゲーム」のラストばりの発想力を見せなくちゃいけないし、そのお膳立ても考えなくちゃいけない。)

 

ゴンの能力を具体的に考えてみる。

わたしは、「糸」にまつわる能力になるのではないか、と考える。

「仲間思い」から来る「守る能力」、つまり仲間との絆である。

絆といえば糸をイメージする。

人と人をつなぐものである。

何千本もあつめることで、熱い装甲にもなり、人を守ることができる。

「守る能力」であると同時に、ゴンを導く力にもなりうる。

理の中で、ゴンを導くものが、この糸の能力であり、

外界にいる仲間との絆ならば、面白のではないかと思った。

こっちの世界と、あっちの世界を繋げられるものとして描かれるのではないか。

また、「助ける能力」にもなり得る。

「呪い」や「イニシエーション」に囚われている人間に垂らす一筋の蜘蛛の糸のような、そんな能力にもなり得る。

これを、ゴンの「危うさ」につなげるのは難しい。

例えば、ゴンは糸を繋げたり切ったりする能力だとする。

繋げる方にゴンの優しさ、切る方にゴンの怖さを乗っけたら面白いのではないか。

「糸」というのを、物理的なものに捉えずに、「繋がり」という象徴として捉える。

我々がこの世に存在するのは、あらゆる「繋がり」のおかげである。

今、自分が座っていると実感できるのは、椅子の反作用という、この世との「繋がり」があるからである。

関係性の中でしか、我々は自分の存在を実感できない。

その「繋がり」を切ったり貼ったりする能力とするならば、空恐ろしい。

「繋がり」というものを象徴するものとして、「糸」という形を与えられるのではないかと予想する。

ゴンには釣り竿のイメージもあるし、釣り竿復活の可能性もある。

ゴンの個性は「糸」で表現するとぴったりくる。

 

ただそうすると、マチと能力が被るのである。

例えば、「服」を纏う能力とかどうだろう。

わたしが、キルラキル大好きなのもあるが、

糸の能力も使えるし、マチとも被らない。

面白いのではないか。

うーん分からない。今後さらに考えてみる。

 

※さらに追記

ゴンの新能力は「糸」にまつわるものではないかと書いたが、しっくりこなかったので再び考える。

書いている内に、ゴンの本質は「炎」ではないかと思えてきた。

属性としての「炎」ではなく、「呪い」も「イニシエーション」も全てを焼き尽くすという意味での、言葉遊びとしての「炎」である。

古くより、炎には様々な意味合いがあった。

闇を照らして不浄を祓う一方で、危険で扱いの難しいものでもあるため、畏れられ、信仰の対象になることもあった。

使いこなすことができれば、利益をもたらす、ハイリスクハイリターンなものである。

ゴンにおける「脱出力」というのは、垂らされた糸を手繰り寄せるものではなくて、箱そのものを破壊してしまう性質である。

ゴンは何かをつくる能力よりも、破壊する能力の方が相応しいと思い直した。

何かをつくるのは、むしろジンの性質な気がしてきた。

したがって、ゴンの能力は「糸」ではなく「炎」の性質を持つものだと思う。

つまり、ゴンこそがクトゥグア枠ではないかと。

例えば、ゴンに「不死鳥」のような念獣が憑いたらどうだろう。

「呪い」も「イニシエーション」も「癒し」も全てを破壊していしまう能力。

バフもデバフも全てを打ち消してしまう能力。

上条当麻の幻想殺しのような、全てを無効化する能力。

全てを破壊したのち、虚無となった灰から、新たな価値を生み出す。

そんな、能力がゴンの性格にピッタリ合うのではないか。

これが、ファイナルアンサー!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

妄想にお付き合いいただきありがとうございました。

次に書くことがあれば、根拠を明確にして、具体的に考察してみたいです!

 

無職転生Ⅲ1話「燃えよ狂犬」2話「吠えよ狂犬」感想~演技の面白さ~

メッッッッッッッッチャ面白かった!

説明台詞がほとんどなく、演技で描き切っている。

まだ見ていない人は、早く見てほしい!

 

公式サイト→

TVアニメ「無職転生 ~異世界行ったら本気だす~」公式サイト

 

目次です→

 

「はじめに」では、アニメ本編の内容に触れずに感想を書く。

「原作ネタバレなし感想」では、本編に触れて感想を書く。一期や二期のネタバレも含む。

「原作ネタバレあり感想」では、本編だけでなく、原作rラストまでのネタバレも含む。

 

 

 

はじめに

私は、アニメの中身だけでなく、アニメというメディアそのものも好きだ。

アニメならではの表現が思いがけず飛び出して来たら嬉しいし、他媒体にはない「何か」を探すためにアニメを見ている。

もちろん、アニメならではの表現というのは一筋縄ではいかないのは分かっている。

多様な作品があるからこそ、輝く作品が生まれるのだろうし。

見させてもらっている側で、そんな偉そうなことを言ったら罰が当たるというものだ。

それでも本心としては、せっかくアニメで表現するのだからアニメで魅せて欲しい。

アニメ版無職転生は、一期も二期もアニメの魅力がつまっている作品で、毎週楽しみにしていた。

今回もアニメの可能性を信じさせてくれるような素晴らしい回だった。

 

アニメにおいて大切な要素は何だろう。

私にとって、それは「キャラクターの演技」だ。

アニメというのは、演技を直に描かなければ、成立しない媒体だと思う。

アニメを作るには、「キャラクターの演技」を避けては通れないはずだ。

アニメを作るというのは、きっと演技とのガチンコ勝負になるのだろう。

演技が良いほどに、キャラクターは生き生きと動き出す。

セリフの中身よりも、誰がどのような言動を行ったのかが大事だと思っている。

そもそも、セリフがなくても伝わるものもある。

言葉にならないものに大きな意味を込められるのが、アニメの良さだと思う。

また、それを描かなければ成立しないというのがアニメづくりの大変さなのだろう。

 

今回は、「キャラクターの演技」が特に良かった。

具体的に、どこが魅力的だったのか。

これから感想を書いていく。

大まかなところから語って行って、少しずつ細かいところに立ち入って行くような語り方をしてみようと思う。

 

 

 

原作ネタバレなし感想

「シンボル」の面白さ

「シンボル」の使い方が面白いと思った。

今回のお話では、「エリスの練習をこっそり見る門下生の人数が増える」などの状況の変化を使ってキャラ同士の関係性の変化を表現している。

さらに、「光の太刀」、「ファイアボール」、「毛皮」などのスキルや道具を使って、キャラクターがどう扱うかを描くことで、キャラクターの内面を表現している。

無職転生という作品は、あらゆる「シンボル」を使って行間を読ませる表現が凄い。

それも、「偉そうだ」と思われないような「シンボル」の使い方をしている。

「シンボル」を使うと、高尚さを鼻にかけたような印象を与えやすくなる。

思想などの作品の外部の文脈を使って「シンボル」を描くからだ。

この作品に親しみやすさがあるのは、どの「シンボル」も作品内で完結しているからだと思う。

その「シンボル」に物語が割かれ、何度も登場するごとに思い出として蓄積されて行くき、大きな意味を持つようになっていく。

「シンボル」を使ったおかげで、直に描かれているもの以上のことを表現できる。

また、「シンボル」のおかげか説明台詞をほとんど削れ、演技が映える。

 

 

細かくストーリーの中身を見ながら、具体的に「シンボル」がどのように使われているか確認してみる。

1話2話では、エリスが道場に馴染んでいく物語が描かれている。

全体としては、ルーデウスへの思い、ギレーヌとの記憶、仲間たちとの切磋琢磨というテーマで、綺麗に対照的に閉じられていて、すっきりと自然なお話になっている。

 

1話は、エリスの努力が門下生に認められていく物語だと思う。

冒頭では、エリスの「ルーデウスにつり合うような剣士になる」という覚悟が描かれる。

その後、覚悟をバネに、一人で稽古を続け、その努力を剣神流の門下生たちが認めていく。エリスが認められて行く様を、エリスを見守る門下生が日に日に増えていくことで見せている。

1話ラストでは、北帝との闘いの中で、覚悟が実を結び、剣聖の証である「光の太刀」を習得し、道場の皆が歓声を上げるシーンで終わる。エリスが同じ門下生の仲間として、完全に認められた瞬間だった。

 

2話は、エリスに戦友ができる物語である。

2話前半では、ニナがエリスの覚悟を知り、エリスを認めるまでの物語。

2話後半では、イゾルテとの闘いの中で、エリスの覚悟が強い故の弱点に向かい合い、ニナに克服方法を教えてもらう。ファイアボールについて話すエリスの殺気が消えていることに、ニナが気づいて、教えてくれる。

「ファイアボール」には、ボレアスだった頃の記憶、ルーデウスへの出会いのきっかけ、苦手だけどがんばったものなど、最強の剣士になるために捨てて来たものがつまっている。

2話終盤では、ニナから教わった「ルーデウスとの思い出」を使って、イゾルテを倒すことに成功する。

一人の力では難しかった困難を、戦友たちの力を借りて、思い人との思い出を使って、乗り越える。

 

ラストは、毛皮のコートを羽織って、門の向こうに歩き出すシーンで終わる。

「毛皮のコート」には、仲間として認められた証、ギレーヌとおそろいの服、戦友との思い出、などのあらゆる意味がこもっている。

「シンボル」の面白さが表れているシーンだと思う。

 

ドラマシーンの演技

ここからは、より詳しく各ドラマシーンの感想を書いていく。

物語の大事なドラマシーンで何度も出てくるのが、中庭&渡り廊下である。

このシーンでの演技への落とし込みが凄い。

 

道場には中庭のような場所がある。中庭には渡り廊下があって、各々の部屋や道場と繋がっているらしく、門下生たちはよく渡り廊下で談笑をしているようだ。

 

1話2話では、中庭&渡り廊下でのシーンが4回、

エリスが中庭から離れて一人で稽古し始めるシーンも含めると、5回ある。

中庭&渡り廊下での演技を追っていくと、キャラクター同士の関係性の変化を整理しやすい。

中庭&渡り廊下のシーンを中心にしながら、アクションシーンは一旦飛ばして、各ドラマシーンを時系列順に追っていく。

 

 

渡り廊下を舞台に見立てると、まるで歌舞伎の舞台のようになっている。

その中で、キャラクター達がどこに配置され、どう動くのかが大きな意味を持ってくる。



 

①中庭で訓練するエリスをニナがからかうシーン

渡り廊下で談笑中のニナはからかい、ジノは皆の輪に入りなよと呼び込む。ニナとジノが内輪の夫婦喧嘩を始め、イライラするエリス。

渡り廊下という舞台の上の2人と、その舞台にいないエリスの構図である。

 

エリスは輪の外にいて、一人で良いと思っている。輪を作っているニナやジノも声をかけるだけで、輪をぬけてエリスと仲間になろうとはしていない、というシーンである。

 

普通、入り始めの門下生は門下生同士で稽古するものだと思う。

しかしエリスは、いきなり剣神との稽古から始まってしまう。

ただでさえ、心象の良くないエリスなのに、門下生とつながるきっかけを失っている。

 

そんなエリスに対して、ジノは「門下生の輪に入れよ」とアドバイスをし、ニナはエリスをからかう。

ニナがからかうのは、コテンパンにされたことへの負け惜しみもあるだろうし、自分の尊敬する門下生たちがエリスを認めていないからというのもあるだろうが、それだけではないのではない。

小学校の頃を思い出すと、やんちゃな男子は好きな女子をからかっていた。

また、優等生をからかう子もいた。優等生は、仲間内のルールよりも、先生のつくるルールを優先するからだ。

輪の外にいるけれど何となく気になる相手と、つながりを作る術がまだまだ未熟な少年は、からかうことでつながりのきっかけを作るのだ。

ニナは、からかうことでエリスとつながるきっかけを作ろうとしている、とも言える。

他の若い門下生は、ニナがボコボコにされたのを見て恐れているからか、ただ後ろに下がって、関りを持とうとしない。

その中で、ニナとジノだけがエリスを見てくれていた。

しかし、ニナとジノも、ただ声をかけるにとどまっている。

待ちの姿勢であることは他の門下生たちと変わらない。

エリスも歩み寄るどころか、馴れ合いを拒み、輪を抜け出してしまう。

 

もし、ここで修行していたのがエリスでなくルーデウスなら、

「きっと、二人は幼馴染でずっと一緒に剣の修業をして来たのだろう。夫婦喧嘩だと思えば、微笑ましい限りじゃないか」みたいなモノローグが入って、ニコニコしてそれを眺める。もしかしたら、近づいて行って、「さっきはすみませんでした」とペコリと謝るかもしれない。そこで、ニナに「気持ち悪!行こ!」とルーデウスを残して二ナは去り、一人ルーデウスは傷ついている。なんて、そんな風景が見える。ニナとルーデウスは多分ことごとく性格が合わないだろうな。

 

②崖の上で鍛錬をするエリス、それを見守る門下生のシーン。

鍛錬するエリスの一人芝居を、門下生が観客として見ているような構図である。

エリスは一人で努力をし、その努力を門下生たちは見守りつつも、門下生の方から手を差し伸べることはないシーンである。

季節が変わり髪の毛が伸びることで、時間が進んだことを教えてくれる。

見守る門下生の数は日に日に増えていく。

エリスの努力を見て、門下生の皆がエリスをみとめはじめている。

しかし、エリスは一人のままである。

魚を串にして焼くシーンで、火を囲むのはエリス一人で、周りはただ見ているだけだ。

 

北帝との初戦を終えて、エリスが自室に帰ると、そこにはギレーヌがいた。

こういった道場は、門下生とルームメイトになって、共同生活をしながら仲を深めていくのが普通だと思う。

エリスのルームメイトはギレーヌである。

門下生にとって、エリスは異邦人であり、「お客さん」なのだ。

 

ちなみに、エリスが何も言わずに横になる、このシーンが好きだ。

北帝と戦って、息が上がってしまった自分の非力さが悔しいはずなのに、そのことをギレーヌには一言もかたらない。

悔しさを自分の中に抱え込むところに、エリスの強さがある気がする。

 

そんなエリスの姿を見て、ギレーヌは剣神のところにクレームをつけに向かう。

このシーンも良い。

ギレーヌは学校の先生のような立場であり、エリスを一つの人格として大切にしている。

剣神は師匠のような立場であり、「狂犬エリス」という作品を完成させたい。

この立場の差が、エリスへの考え方の差となって表れている。

また、ギレーヌは筋の通らないことに対しては、厳しい。

そんなギレーヌのことを知っている剣神は、ギレーヌに合わせて、エリスの教育方針を合理的に説明する。

自分の中で筋が通ったとたんに、さっきまで怒っていたのが嘘みたいに冷静に引き下がるシーンがかわいらしかった。

納得した途端、尻尾が動く演技も含めて、ギレーヌの人間味が出ていて良い。

 

 

この後、北帝との再戦の中で、覚悟と努力によって覚醒したエリスが、「光の太刀」を習得し、北帝を打ち破るのだが、これを見て門下生たちは歓声を上げる。

門下生たちが、エリスを剣聖と、つまり仲間と認めたシーンである。

 

③渡り廊下の上手から入って来るエリスと、それを受けて、下手から道を塞いで指をさして、負け惜しみがてら馬鹿にするニナのシーン。

 

 



 

強い剣士として門下生の仲間と認められながらも、いまだ孤立しているエリス。

そんな強者エリスは、ずかずかと上手から渡り廊下に「入ってくる」。

それを邪魔するかのように、ニナが左からエリスを迎える。

舞台では、上手(客席から見て右)が強者、下手(客席から見て左)が弱者のルールがある。

上手側から来る強者エリスに、挑戦する形で、弱者のニナが立ちふさがる構図になっている。

剣の実力では勝てないから、別のことを持ち出して、負け惜しみを言う。

「みんなは認めたみたいだけど、あたしは認めてないから」という立場の表明だ。

わざわざ、面と向かって指をさして馬鹿にするところに、ニナの勝気な性格が表れている。

負けず嫌いで、納得できないモヤモヤに弱く、直に白黒つけようとする気の強さが表現されている。

 

ニナは、はっきりさせるために、ルーデウスについて調べ初め、わざわざ魔術大学に行ってしまう。このフットワークの軽さも、ニナの良さである。

そこで、バーディーが―ディーに挑むのだが、返り討ちにあってしまう。

毛皮をバサッと脱ぎ捨てるシーンは後半への布石になっている。

この毛皮は、剣聖という肩書、剣神流の仲間などの意味が込められている。

毛皮を脱ぎ捨てて挑むということは、我が身一つの実力だけで挑むという風に読めなくもない。

全力で戦ったが、結局バーディーガーディーには勝てなかった。

自分には勝てないバーディーガーディーを瞬殺してしまうルーデウスを目撃して、ルーデウスの強さを知る。

そんなルーデウスに近づこうとするエリスの覚悟が解り、自らを省みる。

 

④中庭で鍛錬するエリスを見て、ニナが渡り廊下から降りて、中庭で一緒に鍛錬を始めるシーン。



 

ニナはルーデウスの強さ知る。

そんなルーデウスに追いつこうとするエリスの覚悟が解り、渡り廊下から中庭に降りて行って、一緒に鍛錬をする。

①では、渡り廊下から降りずにからかい、

②では、上手から異物のエリスが入って来て、それを邪魔する、

③では、客としてエリスを見ているが、

ここで初めて、自分からエリスの所に降りて行くというニナの意思が描かれる。

 

またこのシーンでは、ニナはただ何も言わずに隣で剣を振り始める。

謝ることもせず、言い訳もせずに、きっぱりと行動で示す、このシーンが凄い好きだ。

何か口にしてしまったら、エリスの覚悟に泥をぬるような気がするし、

ただ隣で剣を振るだけ、存在を認められたような気持ちになる。

言葉にしろ、行動にしろ、大事なのはその中身じゃなく、

誰が誰に対してどのように伝えたのかということなのかもしれない。

これを、考えることなく、直感で分かってしまうエリスやニナのような武人たちの姿に、温かいものを感じるのだ。

 

その後、イゾルテとの闘いの中で、自らの強い覚悟ゆえの弱点を知る。

イゾルテ、ニナと修行する中で、その問題と向き合うことになる。

 

反省会をするということで、場所を変えようという話になり、ニナの部屋に2人を招くことになった。

エリスにしてみれば、はじめて他の門下生の部屋に入ったことになる。

そこでギレーヌと同じ毛皮を発見する。

まだ、門下生に馴染めていないエリスがうかがえるシーンだ。

 

ちなみに、「こんな反省会に意味なんてあるのかしら」とニナが窓を開け、ぱっと風が入ってくるこのシーンにも、意図が隠されているように思える。

ニナにしてみれば、それまで異質な存在だと思っていたエリスや、他の流派の門下生であるイゾルテを、自室というプライベートな空間に入れるシーンでもある。

エリスやイゾルテは他の門下生と馴染まない異物である。

他の門下生たちは輪の中で閉じていて、異邦人に冷たい。

ニナは、異邦人と道場を結びつける存在に思える。

道場に新しい風を呼び込む。

異邦人にも新しい風を呼び込む。

異質な風どうしが、ニナの部屋でまじわる。

邪推かもしれないが、このシーンはそんな意味があるような気がした。

多分、ニナがいなかったら、エリスとイゾルテは仲良くなっていない。

勝ち気ゆえに、一度相手を認めれば、垣根なく人と付き合えるニナだからこそ、そういった人と人を繋ぎとめるような役回りができるのかもしれない。

 

この後、三人で魔獣を狩りに行くことになる。

魔獣には火に集まる習性があり、ニナが火をつけようとするが、上手くつかない。

そこで、エリスがファイアボールを詠唱し、ルーデウスの話をする。

ルーデウスの話をするエリスから殺気が消える。

殺気が消えたことに気づいた2人は顔を見合わせる。

美しい説明の動線になっている。

 

「ファイアボール」は、獰猛な剣士としてのエリスとは違う側面、まだ魔大陸に転移する前の、ボレアスだった頃の思い出である。

それも、ルーデウスとの大切な思い出である。

強くなるために、ボレアスの名前と一緒に捨てたはずのものが、本当の毅さを手に入れるためには必要だったのだ。

 

⑤魔獣を狩った後のエリス、ニナ、イゾルテの会話シーン

イゾルテと別れて、スタスタと上手に歩き去るエリスと、エリスの背中に声をかけたあと退場するイゾルテ、エリスを追いかけてわざわざ上手側に回り込んでアドバイスをくれるニナ。その後、ニナが下手にはけて、エリスが一人残される。エリスはルーデウスのことを思い出し、はっとする。

 

ルーデウスへの思いを語るとき、エリスから殺気が消えることは、イゾルテとニナの両者ともが気づいている。

イゾルテは、エリスの背中に感謝の言葉をかけるだけで、そのまま後ろにはける。

イゾルテは、相手にも相手の気持ちとタイミングがあるだろうから、無暗に相手の敷地に足を踏み入れず、自由にさせておく放任タイプなのだと思う。

ニナは、わざわざ追いかけてアドバイスをしてくれる。

ニナは、相手の敷地に入るリスクには鈍感で、お節介焼きするタイプなのだと思う。

こういう性格の違いが剣術のスタイルにも影響しているのだろう。

 

ニナが、輪を抜けて一人になろうとするエリスに向かって走る。

エリスに追いつき、追い越して、一人で帰ろうとするエリスを上手側から塞ぐ。

この演技には、とてもたくさんのことが込められていると思う。

まるで輪から離れるエリスの手を引いて、そっちに行っちゃだめだと言っているような不器用な優しさを感じた。

 

エリスがイゾルテに勝てないのは、エリスの覚悟のためである。

「ルーデウスと一緒に戦える存在になりたい」「オルステッドを切れる剣士になりたい」

腹を決め、ボレアスを捨て、エリス・グレイラッドとして最強の剣士を目指した。

その覚悟を胸に、修羅となって、単身で敵に食らいつき、絶対にその牙を放さない。

しかし、それだけでは勝てない敵もいた。

仮に獰猛さがなくなって、弱くなったとしても、友人や恋人の力で、人は毅くなる。

無職転生という作品全体にまたがる1つの教訓のように思える。

「狂犬エリス」という作品を完成させたい剣神にとっては、複雑な結果だったらしく、ちょっと困った顔をしていた。

 

アクションシーンの演技

アクションシーンでは流派の特色が如実に表れている。

 

剣神流:敵が反応する前に断ち切る、一刀を極めるスタイル。

北神流:からめ手を使いながら敵を追い詰めていく、詰将棋のようなスタイル。

水神流:敵の動きに応じて対処していく、柔軟なスタイル。

 

解説役みたいなキャラはおらず、全部動きで表現されているのが凄い。

それぞれ、感想を書いてみる。

 

①エリスvs剣聖ジノ

エリスは、ジノが準備をしている最中に、ジノの剣を叩き落し、的確に首を狙って、ジノを倒す。

真剣勝負を意識しているエリスと、試合としか思っていないジノの、視座の差を感じる試合だった。

「ここには、甘っちょろいやつしかいないの」とは、「命のやりとりをする覚悟のある奴はいないの」ということだと思う。

 

②エリスvs剣聖ニナ

演技の素晴らしさがつまっているシーンである。

 

エリスは礼もせず、剣神を雑魚呼ばわりした。

しかも、剣聖ジノを(門下生からしたら)姑息な手を使って、剣神流に泥をぬった。

門下生からしたら面白くない。

そこで門下生の一人は、生意気なエリスを懲らしめてやろうと、姑息な手を使う。

本物の剣をしこんだ竹刀をニナに手渡し、ニナもその門下生の意図をくむ。

ニナは、エリスを煽り、向こうから来させるようにし、エリスの竹刀を叩き割ったことで勝ちを確信してほくそ笑む。

しかし剣を失っただけではエリスは止まらず、慢心しているニナの顔面をぶん殴る。

 

若い門下生たちはそれを見てドン引きする。

この後、若い門下生たちもエリスに寄り付かないのは、エリスが怖いからというのもあるのだろう。

ニナが意固地にエリスを敵視したのは、色々理由があると思うが、「なにみんなびびってんのよ、大したことないわよ、あんなやつ」という負けん気が出ていたからというのもあるかもしれない。

 

エリスは、何度も何度もニナを殴りつけて、失禁して動かなくなったニナを置いて、本物の剣の入った竹刀を全員に見せつけ、それを地面に投げ捨ててから、「ここには、甘っちょろい奴しかいないの!」と啖呵を切る。

「一人の剣士として向かってくるような最低限の覚悟すらないないのか」と言っているように思える。

これを全て演技で見せきっている。

 

このシーンでは、演技自体に面白い仕掛けが施されている。

門下生の一人がニナに竹刀を渡すシーンで、ニナが予想外に重たい竹刀を取り落としそうになる演技と、ニナが門下生に対して頷くシーン。

視聴者は、軽い違和感を覚えつつも、キャラクターの意図は分からない。

竹刀の中に芯が入っているということが演技によって明らかにされてはじめて、「なるほど、そういうことだったのか」と納得する。

この時点では、ニナが尊敬するような偉い大人の門下生たちがエリスに反発しているといるのであって、ニナがエリスを嫌っているわけではない、ということ。

ニナは、エリスと真剣勝負をしようとしていたが、剣神流全体のエリスへの反発心を汲んで、ズルをしたのだ、ということ。

そして、エリスを煽ったのは、向こうから剣を振らせて、叩き割るためだったということ。

後から、それぞれのキャラクターの意図を理解する快感があった。

 

エリスvs剣神

エリスが剣神に剣を振り下ろすシーン。

一瞬、時が止まり、モノクロのようになったと思ったそのときには、

エリスは道場の外まで飛ばされていた。

しかし、倒されてもなお、エリスの目は死んでいない。

オルステッドを倒すには、剣神のようになるのではなく、剣神も倒せるようにならなくちゃいけない。

憧れは理解から最も遠い感情だ。

悔しそうにするエリスを見て、剣心は自分がエリスに稽古をつけると言い出す。

門下生たちが反発するが、門下生たちに道理を説く。

速い奴が偉いんじゃない。

剣術スキルがあるからって何だっていうのか。

まして、肩書など何の意味もない。

つえぇ奴が偉いんだ、と諭す。

先程のズル行為も暗に諫めている、含みのあるセリフで凄い好き。

 

エリスvs北帝オーベール

北帝オーベールとの初戦は、道場の門の前で始まった。

オーベールはゆったりとした服を着ることで、死角を作りつつ、刀をしこみつつ戦う。

エリスは飢えた野獣のごとく食らいつく。

 

オーベールは相手が剣神流の門下生だとあなどって、はじめは軽く稽古をつけるような気持ちで手心を加えている。

それを証拠に、はじめは剣を逆刃にして戦っている。

しかし、エリスは視線誘導に引っ掛からず、逆に丸腰で殴りに来た。

オーベールが逆刃で戦っていたために、エリスは無傷で剣を受けきることができた。

エリスはルイジェルドとの修行で、視線誘導を知っていたのだろう。

視線誘導に引っ掛からず、逆にそれが隙になると直感した。

エリスの獰猛さと思いきりの良さに驚き、逆刃で持っていた剣を、反対に持ち直す、という演技が入っている。

ここからが本気の命の奪い合いだというところで、剣神が止めに入る。

しかし、エリスは一方的に動かされ消耗し、肩で息をしていた。

長期戦になれば、攻め込んでいる側が不利になる。

 

第二戦でも、エリスはオーベールに必死に食らいつく。

光速で動いたときの光彩と色を失ったような画面に変わり、一瞬で相手の剣を切り去り、音を置き去りにする。

これは一期で、ギレーヌが人攫いを切るシーンと同じような効果が使われている。

光の太刀を習得した瞬間だった。

 

エリスvs水王イゾルテ

エリスが道場に入ってきた瞬間、エリスの殺気にあてられて、イゾルテが過剰に反応する。

そのイゾルテを水神が諫めるというシーンが入る。

 

エリスの殺気に対し、北帝オーベールはそこまで反応していないのに対し、水王イゾルテは見てもいないのにすぐに反応し、水神がそれを諫める。

北帝オーベールは、むしろ素手で殴りに来たところで、この剣士は一筋縄ではいかないと理解するのだ。

このあたりも、北神流と水神流の違いのあらわれている所だと思う。

 

戦う前に、イゾルテは二人を煽り、動きを読みやすくしたうえで、エリスの光の太刀を受け流し、完封する。

ちなみに、この受け流す技は、1期でパウロがルーデウスをギレーヌに受け渡す際に、ルーデウスを叩きのめすシーンで、同じような演技の剣術を使っている。

 

エリス&ニナ&イゾルテvs魔獣

エリスはすぐに魔獣に突っ込んでいく。

ニナは「取りこぼしているじゃないの!」と言って、トントンと靴の雪を落とす。

これは、ニナの一呼吸おいて、自分のパフォーマンスを最大にしたうえで一気に攻めるという特色を表す演技だと思う。

勝負をしているエリスと剣技をしているニナの違いである。

エリスが野獣のように一匹ずつ攻め、取りこぼした敵をニナが処理する。

イゾルテは、待ちの姿勢で、敵を観察し、正確に倒していく。

それぞれの個性が出ていて、面白かった。

アクションに迫力もあって、見ていて楽しいシーンだった。

 

ここからは原作のネタバレあり↓↓↓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

原作ネタバレあり感想

言い訳ですが、一週間でソースを洗い出しきれなかったので、ところどころ記憶があやふやな部分があります。ご容赦ください。

 

 

 

剣術について

原作で書かれていたことだったか、それとも私のただの想像でしかなかったのか、覚えていないが、三流派の剣術というのは魔眼や魔術に対抗するために作られたものだと考えている。特に、未来予知の魔眼に対抗するためのものだと思う。

 

剣神流の居合は、たとえ未来が見えたとしても、反応できない。

原作では、ルーデウスはオルステッド戦ではじめて剣神流の攻撃を受けたと記憶しているが、ルーデウスは未来が見えても、何が起こるが理解できない。ただ、死が見えたのだった。

また、魔術を詠唱する前に敵を屠ることができてしまう。

 

北神流は、確実に攻撃があたるように、攻撃をよけられない状態に相手を追い詰めていくスタイルだ。

人攫との戦闘シーンでは、空中に飛んだルーデウスめがけて剣が投げられ、危うく死ぬところだった。いくら未来が見えていても、空中ではかわせない。獣族の村での戦闘では、視覚外からのナイフ攻撃を受けている。見ることのできない攻撃は、予知もできない。原作の、北神との闘いでは、範囲攻撃を相手にうたれる。これも、未来が見えていても、かわすことのできない攻撃だ。

魔術に対する確実な対策法は他の流派に比べて少なそうだが、手数やからめ手で圧倒して、大技を打たせないことはできそうだ。

 

水神流は、相手待ちのスタイルである。

相手の意図に応じて、動きを変えてくるので、未来がぶれることになる。

魔眼の力を得ていきっていたルーデウスを、ルイジェルドが叩きのめすシーンで、おそらくは水神流の技を使っている。

また、魔術を切って打ち返す技もあったと記憶している。

このように、各流派を極めれば、魔眼や魔術を完封できるようになっている。

 

(ちなみに、私がこの世界にいたら、北神流を習っていると思う。

偏見だが、剣神流は上下関係厳しそうだし、

水神流ははじめのうちは剣に触らせてもらえずに、雑巾がけとかさせられそうで嫌だ。)

 

人族と魔族は長らく戦ってきたようだが、

人族と魔族を分かつのは、人魔大戦でどの陣営に属したかであったと思う。人族の敵として戦った種族全員を魔族と一括りにして魔大陸に追放したとか、たしかそういう設定だったと思う。

魔眼は魔界大帝が下賜したもの。魔族であろうと、一部の者しか使いこなせない。魔眼を使うものをおそれ、魔族と呼んだが、いつしかそれが総称や蔑称に変わって行ったのではないか。

魔術というのも、魔族が発明したから、魔族の術で魔術なのかも、と考えたりもする。

 

そういえば、魔族で三流派の剣術を使うキャラクターはとても少ない。

剣術を使うのはルイジェルドくらいのものではないか。

現に、剣神流の道場に、魔族はいなかった。

三つの流派は、魔族との闘いの中で、人族が精錬されていったのではないかと思う。

もしかしたら、人族しか入門させないという掟でもあるのかもしれない。

とするならば、剣神が獣族であるギレーヌを入門させているのは異例のことだ。

実力主義の剣神にとって、下らない肩書や種族でふんぞり返っている連中は嫌いだろう。

もしかしたら、彼は歴代でも異端の剣神なのかもしれない。

 

ガルファリオンとファイアボール

弱みにならぬように捨てるべき家族や友人といったものが、本当の毅さを手に入れるためには必要だったのだという考えは、無職転生という作品全体にまたがるメッセージにも思える。

ルーデウスの人生を考えても、エリスの人生を考えても、ジノの人生を考えても、弱みになるはずの家族が、むしろそれが人としての毅さになっている。

 

ジノがなぜガルファリオンを倒すほどに強くなったのか。

原作終盤で、エリスはルイジェルドとルディーとともに、ガルファリオンと戦うことになる。

エリス一人では、彼を倒すことはできなかっただろう。

いやもしかしたら、エリスが飢えた野獣のごとく訓練をしていたら、エリスは剣神などゆうに超えていたのかもしれない。

どちらが良かったのか、それは分からない。

ただ、結果として、ルイジェルドを侮ったガルファリオンは、ルイジェルドを信頼して背中を預けたエリスに負けた。

ジノに負け、自信をなくし、そしてエリスにも倒された。

彼は、死にゆく最後に、自分が女々しくなったという。

家族や弟子ができて弱くなった、と。

お前は囚われているようで自由だ、と。

 

エリスはルーデウスを守りたいから頑張る。

仲間を信じたいから背中を預ける。

他の誰がどうとか関係なく、真っすぐな目でルーデウスのことだけを見つめていた。

ただ、自分の欲望に忠実にルーデウスを守りたかった。

ただそのために、最強の剣士を目指した。

 

ガルファリオンはどうだったのだろう。

彼は、ただ自由に、剣士として生き、剣士として死にたかった人だ。

だが、強くなるほどに肩書は増え、しがらみも増えて行った。

彼は父として子を守らなければならなくなり、師匠として門下生を育てなければならなくなり、大人として道理を説かなければならなくなった。

肩書を誰よりも嫌った彼が、肩書を守るために、肩書に縛られていった。

それは、彼の責任感ゆえのことでもあるはずだ。

それが彼にとって良いことなのか悪いことなのか、それは分からない。

弟子たちを立派に育て上げたのだから、誇っていいと思うのだが、彼は教育者であるよりも、剣士でありたかったのだと思う。

 

自由なのはいいなと、最後に少年のようなセリフを吐く。

ガルファリオンというキャラクターの奥底に眠る憧れのようなものを体現したようなセリフだった。

最後はその肩書から解放され、一人の剣士として死ねたのだから、本望だったと思うしかない。

死んだ彼を弔うために、何も言わずエリスはファイアボールを打つ。

ファイアボールは、大切な家族であるルーデウスからもらった思い出であった。

そのファイボールで、ガルファリオンを弔うというのが、美しい幕引きだったと思う。

オルステッド戦や今週の1話2話でも、さらにはアスラ王国篇でも、そしてガルファリオンの弔いにも使われる。

大事なシーンで何度も出てくるファイアボールには、たくさんの意味が込められていて、ファイアボールをエリスが打つだけで、胸が熱くなるのだ。

技やモノ、人そのものに積み重なってきた思い出を使って、物語を作っていくのが、無職転生という作品の好きなところだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上です。お付き合いいただきありがとうございました。

今週の無職転生も楽しみです!

「ごめんなさい」を「ありがとう」に変えたい

私は咄嗟に謝っちゃうタイプである。

大変な仕事を任せるときに

 

「申し訳ないけど~~やってくれないかな。」

 

私は初期のブログでは、

 

「※この記事は私の独断と偏見です。申し訳ございません。」

 

という長ったらしく、言い訳がましい序文を書いている。

ブログにおいてもなぜか謝っている。

 

 

「ごめんなさい」という言葉を連発するのは、

自分にしか興味がないことのあらわれかもしれない。

相手という鏡の中で、

私がどう映っているのか気になって謝ってしまうのだと思う。

興味のベクトルは自分に向いており、

その奥にある他人という存在と向き合おうとしていない。

「相手に嫌われているかも」という不安感と罪の意識を軽くするだけで、

相手にプラスの効果はない。

相手と向き合って、興味を持ち、喜んでもらう方が、

相手との関係性を良くしてくれるのではないか。

謝るよりも、お礼を言った方が、相手の中で自分の評価が上がるだろう。

相手から良く思われたら私も嬉しい。

このように、打算的な考え方から、

「ごめんなさい」を「ありがとう」に変えようと試みている。

 

 

例えば、大変な仕事を任せるときに

 

「~~やってくれる?やってくれるのか!?ありがとう!!」

 

ここで、驚くのがポイントだと思う。

人間、驚いたことというのは忘れないと思う。

また、驚けるようになると、

自分の外側にある、他人の話に興味を持てるようになると思う。

様々なものに興味を持てるようになると、

自分のアンテナがより高くなると思う。

また、こちらが驚くと、

向こうも楽しく喋れると思う。

ブログもむしろ、先に言い訳と共に謝ることはせず、

最後にお礼を言うか、読者にとって何かプラスになるようなことを書こうと思う。

このように、「ごめんなさい」を「ありがとう」に変えるだけで、

自分も他人も気持ちよくコミュニケーションできると思う。

実践して行きたい。

書こうと思ったことを忘れてしまった……

そんなことってある?

何を書こうとしていたのか、忘れてしまった。

この記事を書き始める直前まで覚えていたのに。

書き始めると同時に、魔法のように消えてしまった。

 

なんてこった。まだ、若者のはずなのに。

若年性認知症なのかもしれない。

嘘だろ……。

 

「これを書かねば!」と思った。

ブログを開いて、「さあ、書こう!」と思った刹那、

ふっと、書きたいものが消えてしまったのである。

 

とても大切なことだったと思うのに。

何だっけ。本当に何だっけ。

狐につままれた気分だ。記憶が霧散した。

むしろ、何か思いついたという記憶の方がおかしいのかな。

 

頭を振ってみたり、叩いてみたり、部屋の中を歩き回ってみたり、

直前と同じ行動をとってみたり、外の空気を吸ってみたりしたが、

一向に思い出せない。

 

よく、記憶っていうのは忘れたつもりでも、

脳の本棚の中に収納されていて、ぱっと出てくることがあると言われる。

そんなんじゃない。ほんとに、脳の細胞という細胞から記憶が消えたのである。

 

忘れ物を呼びながら歩き回ると、

忘れ物がひょっこり出てくるというジンクスがある。

記憶を呼んで、部屋中歩き回ったのだが、記憶は見つからなかった。

 

私の記憶が迷子である。

きっとどっかに散歩に行っているのだろう。

放っておいても、そのうち戻ってくるだろう。

 

何か思いついら、ちゃんとメモしておきましょう。

私から言えるのはそれだけです。

汎用性の高い言葉に用心しよう!

汎用性の高い言葉を多用するのは危険だと思う。

「やばい」「すごい」「エモい」などの言葉である。

汎用性が高い言葉が危険だと思う理由を三点まとめる。

 

一点目は、コミュニケーション能力を阻害する点である。

汎用性の高い言葉を使い続けると、

物事を形容する言葉がぱっと出て来なくなる。

これは、私が実際に経験したことでもある。

私は「やばい」のヘビーユーザーだった。

「やばい」という言葉は便利である。

ポジティブなことも、ネガティブなことも表現できてしまう。

相手が共感を求めている時に、

「それやばいね!」と言っておけば、無難にやり過ごせる。

しかし、「やばい」という言葉を使い続けた結果、

言葉が出てこなくなった。

例えば、友達と映画を見に行った時を例に挙げる。

「映像が●●で美しかった!まるで●●みたいだった!」や、

「●●の演技が感情を良くとらえていて面白かった!」など、

色々な感想があるはずである。

しかし、「やばい」のヘビーユーザーだった私は、

「映像がやばかった!」とか、

「演技がやばかった!」しか言えなくなってしまった。

汎用性の高い言葉ばかり使っていると、

それ以外に形容する言葉が思いつかなくなる。

したがって、コミュニケーション能力に甚大な影響を及ぼす可能性がある。

 

二点目は、分析する能力が落ちるという点である。

汎用性の高い言葉を使っていると、

自分の感じたことを言語化する能力を失ってしまうということは、

一点目で書いた通りである。

「思考=言葉である」という考えがある。

言語化する能力は思考や分析の鋭さに影響すると思う。

よって、言語化する能力を失うと、分析する能力も失ってしまう。

例えば、とあるニュースを見てもやっとする。

言語化する習慣が無いと「もやっ」としただけで終わりである。

自分が感じたものが、本当はどういったものだったのか。

何も分からず、やがて「もやっ」としたということも忘れてしまう。

そのニュースからは何も得られない。

しかし、言語化する習慣を持つ人間は、「もやもや」の正体を言語化しようとする。

その過程で、物事に対するに深い理解や洞察を得られると思う。

 

三点目は、物事への興味関心が薄れるという点である。

汎用性の高い言葉を使っていると、

自分の感じたことを言語化する習慣を失ってしまう。

言語化する習慣を失うと、様々なことに対する興味関心を失ってしまうと思う。

反対に、言語化する習慣があると、様々なものから学べるようになって、

色々なことに対して、興味を持てるようになると思う。

様々なことに興味が持てるようになると、

アンテナが高くなり、思考の密度が上昇すると思う。

また、様々なことに興味が持てるようになると、

興味を持ったことを調べて行く過程で、様々な知識が身につく。

 

以上三点である。

皆さんも汎用性の高い言葉には十分注意した方が良いと思う。

 

汎用性の高い言葉はなるべく使わないように心がけたい。

また、自分が感じたことや伝えたいことを言語化する習慣をつけたい。

日記やブログというのはとても良い教材だと思う。

私は「やばい」のヘビーユーザーだった。

このブログは私にとってのリハビリの場である。

汎用性の高い言葉から卒業して、

言語化する能力を高めるためにブログを書いている。

レジにおける最も合理的なお金の払い方を探求する

スーパーやレストランのレジでお金を払う。

上手く会計が出来たときの達成感が好きである。

この記事では、最も合理的なお金の払い方を考察する。

(カードや電子マネーについては考えない。)

 

 

評価指標は3つ。

「おつりの少なさ」「残る小銭の価値」「スピード」である。

「残る小銭の価値」とは、

自分にとって便利な小銭を残して置こうとすることである。

「残る小銭の価値」は主観的なものである。

例えば、あなたが100円玉が便利だと考えるならば、

できるだけ、50円玉二枚で代用しようとするだろう。

人によって小銭の価値が違うということが、

レジでお金を払うという行動を面白くしている。

また、「おつりの少なさ」と「スピード」の関係性は、

おつりが少ない方が、店員さんが手間取らなくて、会計が速くなる場合もある。

我々が小銭を探すのに手間取って、会計が遅くなる場合もある。

「おつりの少なさ」と「スピード」の関係性が状況によって変化するというのが、

レジでお金を払うという行動を面白くしている。

 

 

(ちなみに、合理的な選択を行うための学問を「ゲーム理論」というらしい。

 あまり、「ゲーム理論」について詳しく知らないので、

 間違っていたらご指摘ください。

 「ゲーム理論」とは相手の選択によって場合分けをして、

 私が何を選択すれば、最も私にとって損が少ないのか考える学問らしい。

 しかし、今回の議題においては「ゲーム理論」は適用できないと考える。

 理由は二点ある。

 一点目は、「ゲーム理論」は相手の評価指標を知った状態じゃないと場合分けできない点である。

 レジにおける相手は店員さんである。

 店員さんの評価指標も分からないので場合分けもできない。

 二点目は、「ゲーム理論」では、相手も合理的に、

 つまり「ゲーム理論」に基づいて行動していると仮定する点である。

 店員さんは、必ずしも合理的に動いてくれるとは限らない。

 以上二点より、「ゲーム理論」は破綻するのではないかと思う。

 「ゲーム理論」では語りえないからこそ、この議題は面白い。

 以上余談でした。)

 

 

おつりの量を減らそうと考えたら、小銭を探せば良い。

しかし、小銭を探すと、「スピード」が疎かになる場合がある。

逆に「スピード」を追求したいなら、お札をポンと出せばよい。

しかし、おつりの量は増えてしまうかもしれない。

 

 

私はまずお札を用意する。

店員さんがバーコードを読み取るのに手間取っていたら、

小銭を下から探して行く。

例えば、 377円だったら, 

まず、500円玉か1000円札をポンと出す。

 店員さんの様子を見つつ、

1円玉→5円玉→10円玉→100円玉→50円玉の順で探して行く。

私は「残る小銭の価値」を最も重視する。

私は1円玉<5円玉<10円玉<100円玉<50円玉の順で使いやすいと思っている。

特に、私は50円玉が好きである。

よって、50円玉をなるべく手元に置いておきたいと考えながらお金を払う。

 

 

(ちなみに、私は50円玉が大好きである。

 50円玉はとても便利である。

 50円玉という概念そのものが合理の塊である。

 まず、小銭を探す手間が省かれる。

 さらに、必要か必要でないか感覚的に分かる。

 加えて、一回に使うのは最大でも1枚である。

 100円玉が足りない時は代用もできる。

 よって、ぱっと取り出したり戻したりすることが可能である。

 また、桁上がりの計算もしやすいので、払い方に柔軟性が生まれる。

 ただ、100円玉とちょっと似ているのが玉に瑕。

 沢山の小銭で埋まっている状態だと、穴が見えないので、区別がつかない。

 100円玉だと思って取り出したら、50円玉だったなんてこともある。

 眼で見ても分かりやすいように、デザインを変えて欲しい所だ。

 それを差し引いても、便利な貨幣だと思う。

 例えば、462円とかの時に、512円払って、

 50円帰ってきたときの、カタルシスが凄い。

 私は50円玉が好きなので、手元に残す。

 最終的に、財布の中身は50円だらけになる。

 50円玉は便利だが、私は使わないので意味が無いのかもしれない。

 以上、余談でした。)

 

 

人によっては、大きいお金を出した後に、

5円玉と50円玉を先に探すかもしれない。

5円玉と50円玉は、いるかいらないか、1 or 0枚しかない。

分かりやすいので、値段を見た瞬間に必要かどうか分かる。

よって、ぱっと取り出すことが可能である。

「スピード」を最も重視している人は、

このような探し方になるのではないかと思う。

 

 

このように、レジにおける合理的なお金の払い方は人それぞれだということである。

なぜなら、どの評価指標を重視するかによって変化するからである。

この記事を読んだ皆さんも、お金の払い方を研究して、

自分なりに最強の理論を組み立ててみて欲しい。

「馬鹿と利口を兼ね備えてないと、前に進めなくなる」

2月になった。

2月になってしまった……。

2022年1月にアップした記事は一個だけ。

12月でアニメブログがひと段落ついて、燃え尽きてしまった。

「まあ、12月は頑張ったんだから良いだろう……。」

という甘えた根性のもと、一か月サボってしまった。

結果、ブログを書いてアップする習慣が無くなってしまった。

このままだとマズい。

なんとか、習慣を戻さねば!

 

 

まあ、何もやっていなかった訳じゃない。

暇な時間は読書していた。

1月はインプットの時期であった。

それを、今後の雑記ブログでは、アウトプットして行きたい。

まあ、これは言い訳である。

読書をしていたから、ブログが出来なかったのではなく、

ブログをやらない口実を読書に求めただけである。

本当の理由は別の所にある。

 

 

本当の理由は、

書いている内に不安になって書くのを止めたり、

書いたけど怖くて投稿できなかったり、

書いた後に恥ずかしくて消したりしているからである。

 

 

「私なんかが偉そうに語って良いのか?」

「私に語る権利があるのか?」

「知識が曖昧なのに語って良いのか?」

「間違っていたら恥ずかしい……。」

「つまらないと思われないだろうか……。」

「拙い文章だと思われないだろうか……。」

恥ずかしい。恐ろしい。不安。

そんな感情がブレーキとなって、

私が記事を投稿することを妨げる。

 

 

恥ずかしさや恐ろしさを越えなければならない。

そもそも、ネットに文章を投稿するというのは、

私の場合は「普通」の状態ではできない。

 

 

アニメブログをアップする時はいつも、

熱病に浮かされたような、ちょっと異常な状態だったし、

雑記ブログを書いている時も、

深夜のハイな時間帯や、徹夜明けのよく分からないテンション、

ちょっと酔っぱらっている時だけである。

 

 

ブログなどの創作物を人に見せるのは、恥ずかしく、恐ろしい。

恥ずかしさや恐ろしさを超えるためには、

「適度な頭のおかしさ」が必要だと思う。

 

 

「適度な頭のおかしさ」とは「馬鹿と利口のバランス」が良い状態である。

「馬鹿」とは、良く言えば「豪傑」、悪く言えば「考えなし」である。

「強すぎる使命感」も「馬鹿」に内包されると思う。

「利口」とは、良く言えば「慎重」、悪く言えば「臆病」である。

 

 

『Hunter x Hunter』という漫画の中で、とても好きなセリフがある。

プーハントというキャラクターのセリフである。

 

「馬鹿と利口を兼ね備えていないと、前に進めなくなる。」

 

馬鹿でないと行動を起こせない。利口でないと道をあやまる。

大事なのはそのバランスなのかもしれない。

この言葉の大切さを改めて実感した。

 

 

私は利口ではないと思うが、臆病すぎる。

後先考えず、取り合えず書いたら何も考えずに投稿すれば良い。

「推敲や内容の精査なんて、投稿した後に編集すれば良い!」

私には、豪傑な魂が必要なのだろうと思う。

 

 

なぜ、私は馬鹿になってまで、ブログを書き続けなければならないのだろう。

いや、冷静になってはいけない。

きっとブログを書き続けることにこそ意味があるんだろう。

進み続けるんだ!どうせなら進むことを楽しもう!

私たちは、進むことを楽しむことでしか生きることができないという、

呪いをかけられた哀れな生き物なのだから……。

ならば、それを最大限利用してやろうじゃないか!

 

 

不安か?ドキドキする?

それを楽しめる人間に、今だけはなってやろう。

 

 

さあ、私よ!

「誰も私を見ていない。」

「失敗しても笑い話になる。」

目をつむって三回唱えるのだ!

そして、この記事を投稿するんだ!